「ありのままの自分」への幻想

 「ありのままの自分を認めてあげよう」


自己肯定感などについて悩んだり、調べている時、よく目にするフレーズだ。
このフレーズ自体は、とても正しいと言える。

自己肯定感とは、「自分はこれだけ能力が高いから立派だ!」と肯定する、という意味ではない。
「自分はこういう駄目な所もあるけど、そういう自分でも大丈夫だな」という感覚を指す。
その感覚に至るには、直視したくなかった「ありのままの自分」を直視し、その上で「大丈夫だ」と思えるようになる必要がある。

  • 「愚かな人間は嫌いだ」と思う人は、自分の愚かさを受け入れられない。(自分は愚かだから嫌いだと苦しむor自分は他人と違って賢い!! という幻想に囚われ、他者と衝突する)
  • 「創作ができない人間に価値はない」と思う人間は、創作に取り組んでいない時の自分を否定し、苦しむ。
  • 「モテない人間はカッコ悪い」と思う人間は、自分のモテなさが我慢ならず、それは他人に見る目がないからだと攻撃する。

など、自分の苦しさの原因は、大体の場合、自分自身の思い込みから来ていたりする。
(それが元々は親や教師から受けた仕打ちによるものであっても、大人になった自分には、それを変えて行くだけの能力がある)

自分の吐いた唾が自分に返ってきても耐えて、自分の、受け入れられない苦しい部分を直視した結果、

  • 「自分は期待していたほど賢くはないようだが、自分に愚かな所があっても、その都度改めていく意識はあるのだから、まあ大丈夫か」
  • 「自分は今創作をする元気がないが、創作以上に、自分の健康やキャリアの方が大切だな」
  • 「自分はモテないが、モテなくても同性の友人はいるし、人生に楽しみがあるからまあいいか」

など、より合理的な認識を持ち、生き方を楽にしていくことができる。

自分で「ありのままの自分」を認め、受け入れることは、大切なのだ。



前置きが長くなった。(できるなら3行ぐらいでパパッと説明してぇ~と思っている)
ここまでは誰でも一度は聞いたことがある話なのでは、と思う。


今回私が話したい本題は、この価値観を下敷きにした上での話だ。


最近気が付いたのだが、なんだか、人間の多くの個体において、
他人が、「ありのままの自分」を認め、受け入れることは、大切なのだ。
と思ってしまうというバイアスがあるのではないか…???
という話だ。


このバイアスは、大別すると2パターンに分けられるように思える。

  1. 他人は、自分の「ありのまま」の姿や欲望を、無批判に受け入れるべきだ
  2. 他人の「ありのまま」の姿や欲望を受け入れてあげることは、良識的な態度だ


この二つが組み合わさった結果、見ていて首を傾げるような意見が"なぜか"一定数の支持を得て、まるで主流で正しい意見であるかのように語られることがある。

これだけでは分かりにくいと思うので、具体例を挙げていく。



1.他人は、自分の「ありのまま」の姿や欲望を、無批判に受け入れるべきだ


「受け入れるべきだ」という表記にすると、なんだか語気が強く思えるが、
「自分を他人に受け入れて貰いたい」「許容して欲しい」という、非常に素朴な感覚だ。
そして、この意識が強いため、実際には受け入れられるはずのない事まで他人に要求したり、衝動的に、反撃のつもりで攻撃したりする反応に陥ってしまう。


一例として、夜道やキャンプ場、エレベーターなどの日常の場で、女性が男性を警戒することを、「ムカつく!」「差別的だ!」と表明する人が居る。
これは、「自分を警戒せず、受け入れて欲しい」という願望が叶わなかったことによる、「裏切られてショック」という反発心であろう。


「表現の自由」を掲げるオタクの内の一派は、実際には「性的な表現物の公共の場への掲示・広告」への批判への反発を主に表明している。
既に公共の場に掲示されたそれを批判するのは「圧力」だ、という理屈を持っている(私はこれに同意しない)が、これも「自分たちの好きな物や欲望を受け入れて欲しい」という気持ちからの反発心が根底にあるのだと思われる。

だが、ゲーム「ウマ娘」の製作者サイドが性的な二次創作を控えるよう「お願い」をしたときは、それが表現規制だという声はほとんど聞かれなかった。
(権威に弱い、という別の理由もあるのだろうが)「今ある表現」に批判がある事がストレスなのであり、「未来」方向に「自主規制」を求められる場合は、反発心が起きず、適応できる、ということなのだろう。


また、人間には、「子供のままでいたい」という、ありがちな願望がある。

自分の欲望を、他人がどこまでも叶えて欲しい。
自分を褒めちぎり、落ち込めば慰めて抱きしめて欲しい。大切にして欲しい。
労働したくない。自分の言動に責任を負いたくない。人に責任を負って貰いたい。
好きなように怒り、泣き、自分の感情を発露したい。批判されたくない。
他人に世話を焼いて欲しい。生活費が常に他人によって賄われてほしい。

こういう願望はある程度誰にでもある事だし、みっともなく見えても、内心にこれらの願望があることだけを理由に自分を責める必要はないと思う。

しかし、これらの願望を「そういう時あるある。でもそれは全部は叶わないし、大人として自分で頑張らないとね」と思えるか、
他人に向けて「これが自分にとっての当たり前ラインだから、叶えて♪と言ってしまうかで、他人への加害度は大きく違うであろう。(勿論後者が加害的だ)



このような精神状態を脱するためには、「自分の欲望や願望は、自分ではそのつもりはなかったが結果的に人への加害になっていて、社会には受け入れられなかった」という、人との衝突や失敗の経験を積み重ねることが必要なのでは…? と思っている。(推測)

しかし、この時に、"他人は、自分の「ありのまま」の姿や欲望を、無批判に受け入れるべきだ"という強いバイアスや信念を抱えてしまうと、被害者意識を募らせるだけになってしまい、失敗から学んでいくことが困難になる。


人間はだれしも、「ありのままの自分」で社会に存在することはできない。
内心がどんなに醜くても許されるが、社会は無数の他者で構成されているから、発露すべきではない欲望や、モラル違反な行動は沢山ある。それは当然だ。
だからこそ、「ありのままの自分を認め、受け入れる」のは、自分自身でなければならない。
自分自身で自分を認められないからと言って、他人に「受容してください、肯定してください」と迫ってしまうと、それ自体が加害になってしまう。



2.他人の「ありのまま」の姿や欲望を受け入れてあげることは、良識的な態度だ


このパターンは、1.のパターンよりもやや屈折している、と思う。

この人たちは、「ありのままの自分」が他人に受け入れられることを早い段階で諦めており、表面的にはモラルを気にする良識的な人たちに見えるのだが、内心では「でも、本当は、ありのままの自分を他人から受け入れて貰いたかったな~!!」と思っている。

そして、ごく素朴な善意として、社会の抑圧に抗う形で「ありのままの自分」が認められることは素敵な事だ、という幻想を抱いている。
だから自分は、他人が「ありのままの自分」を社会から抑圧されているのを見たら、その助けになってあげよう、という、あたたかな善意を持っている。
だって、その抑圧は不当な事に違いないので。

このあたたかな善意の、何が問題なのか?


例えば、「社会の抑圧に反発して、性的に奔放に振舞う女性は自立していてカッコいい、ロールモデルとして見習うべき」という意見があった時、この「善意」が存在している場合、盲目的にこれを「その通りだ!」と思いやすい、と感じる。

社会的に女性の性欲が抑圧されている構造は確かであり、しかし女性の性欲も確かに「存在している」のだから、その抑圧に反発することは「良いこと」のはずで、応援すべき善行、と映る。

そして、「いや、その手段では女性は自立できない。望まない妊娠や性暴力を受けるリスクも大きい。自立のためというなら、経済的な力を得ることの方に注力する方が良い」という反対意見があった時、
「女性の性欲を抑圧するのか!!! お前は男にとって理想化された慎ましやかな女性像を押し付けてくる、女性の敵だ!!!!!」という、強い「反発」が内心に起きやすい、と推測する。

「応援すべき善行、絶対的に正しいこと」に反発するのだから、それは「敵」だ、という、強烈な敵味方識別的反応が起こった結果、文意を冷静に受け止めたやり取りが難しくなり、「本当に正しい理屈とは、どのようなものなのか」を考える力が損なわれる。



「女性が性的に奔放に振舞うことは、蓋を開けてみれば、女性の権利向上にはあまり繋がらなかったね」という見解が現代ではある程度浸透している(のかな?)ようなので、このたとえ話は嘘くさく、誇張されて感じるかもしれない。

なので、また別の例を挙げると、現代でも、
金銭的に不自由がなく、売春業に関わらずに済むことがない社会的な地位の高い女性(もちろん、男性も)が、
「セックスワーカーを見下したり、あまつさえその仕事を社会からなくそうだなんて言うのは良くないですよ、だって彼女たちがやりたくてやっていることなんだから!」という意見を、
「善意から」悪びれなく発表することが、信じられない事だが、ある。

「女性の性の抑圧への反抗」というフィルターを通せば、「セックスワーカー」は「性の自己決定権を行使しており、良いこと」だと断定され、
「それは本人にとって、生身の人間にとって本当に良いことなのか…?」という、複雑な情報処理の工程が抜け落ちてしまう、のかもしれない。
(政治的判断など、他にも理由はいろいろあるのかもしれないし、このバイアスにだけよる物ではないだろうが)

(やりたくてやっているわけではない、生活に苦しんでいる人や、学歴がなかったり障害を持った人が、生活保護を不当に門前払いされる人が、セックスワークを半ば強制的に選択の余地なくやらされている社会的構造の存在を、例に挙げた発言は、丸ごと無視している)


また、これは私自身の話だが、
かつての私は「傷ついた自分を誰かに癒し、全肯定して欲しいという欲望があったが、それが叶わなかった」ため、
その反動から、「傷つきや落ち込みを見せている他人」を放っておくことに耐えられず、ついつい自分がして欲しかったような全肯定的なケアをしてしまう、という悪癖を持っていた。
それ自体は一見「良いこと」「善行」「優しい」ことに思われるかもしれない。
だが、それをされた他人は結果的に、自発的に人に助けを依頼する能力を損なうし、「落ち込みの原因について考え、改善していく」作業をせずに居られてしまうし、「落ち込んでいればこの人が励ましてくれるから」とより一層落ち込みやすくなっていく。
結果的に、全く本人のためにはならない事だと、最近になって思い直した。
むしろ、「落ち込みを表明し続けて愚痴っぽく振舞い続けていたら、好きな人に嫌われてしまった…」という経験の方が、「傷つき」ではあるが、本人にとっては学びのある出来事になるのだと思う。



1.で語った「子供のままでいたい願望」を他者が叶えてあげることこそ「良いこと」だ、と思い込んでしまう心理も、このカテゴリに入るのかもしれない。
子供のままでいたい願望は普通の事なのに、抑圧されていて批判されやすく、なんて可哀想なんだ
という心理に、ついついなってしまうのだ。



他人の抑圧された欲望や自己決定を「無条件で」受け入れてあげるべきだ、それは善行であり絶対的に正しいのだ、という方針は、時に非常に生身の感覚から乖離した結論を導き出し、冷静な検討能力を奪い、その結論に人を縛り付けてしまう
それは、
「ありのままの自分を認められて欲しかった」「そういう社会であって欲しかった」という、本人の根源的で、柔らかい部分に由来しているから、
そして心の柔らかい部分は非常に強い反発心を生むから、なのかもしれない、と思う。


***



「ありのままの自分は、社会からは受け入れられない」


A-1
それは、社会や他人が間違っているからであり、腹立たしい

A-2
私は価値が低い人間なので、ありのままの自分を認められなかった。
(他の価値の低い人間や欲望も、認められないのは当然だ)
だが、ありのままの自分を認められたい願望自体は正しい。
だから私も、価値のある「ありのままの自分を認められたい願望」は肯定して、認める側になりたい

B.
社会が無数の人間から構成されているのだから、仕方ないことだ。
社会に受け入れられる自分である事(努力、加害をしないことなど)は重要だ。
自分は完全ではないし弱いが、そうやって努力する自分を愛し、受け入れよう

(AからBへは変化可能)


私が想像する心理は、このような物だ。
(勿論想像なので、間違っている部分はあると思う)


そして、私が最近思うのは、A-1の無意識で加害的な人が目立つこと以上に、
「A-2」のパターンの人は、案外多いのでは…??? ということだ。
特にオタクの人間には、A-2の世界観の人が多い。
また、「自分の生まれ持った善性の低さに自覚的で、苦しんでいる人」も、「A-2」の心理になりやすいと思う。

「生まれ持った善性が低い」という事は、コンプレックスに繋がりやすく、「ありのままの自分を自己受容する」事を難しくする。
また、社会からの抑圧、この場合は「ルール」や「マナー」や「法律」、「大人からの叱られ」を忠実に守っていた方が、本来の自分の感覚のままに生きることよりも「上手く行きやすい」部分がある。
結果的に、それ自体が目的化するほどのレベルでルールをしっかり守る「いい子」であり続けた結果、「ありのままの自分は受け入れられないという結果だけは知っている」が、「ありのままの自分」を表に出してみたことが無い(表に出せる安心感がない)し、そのために「ありのままの自分」を出すことによっての失敗経験も積むことができない、のではないか。
経験を積む前から、心がくじけてしまっている状態、なのではないか???


***


自分の話だが、最近、「傷つくこと」「失敗を積むこと」は自分にとって学習効果が高く、自分が恐れていたのとは違って有用な物なのでは、という意識が少し高まって来た。
だから、その失敗の回数を増やす「挑戦してみる」「経験してみる」ことは大切だし、「人の傷つきを避ける」行動方針は必ずしも正しいわけではない、と腹落ちして来た。

自分は「自分の感情に従うよりも、ルールに従ったり、じっくりと頭で考えて我慢した方が上手く行く」という思考段階にいるが、
ゆくゆくはこの固定観念を自分で解除していき(その解除の手段がじっくり頭で考えることや、言語化なのだけど)、
「やりたい事を今やる!!!! スピード感!!!」「自分の自己管理を私はしっかりできる!! 安心!!!」「推しは推せるときに推せ!!!!!!!!」みたいな精神状態に、自分を持って行きたいな~、と考えている。
自分の努力で自分は変われるとわかってきたので、時間がかかるかもしれないが、確実に今よりは前進していけるはずだ。


「自分は努力することで前向きに変化していける」と思う事ができるならば、どんなに今現在の自分がしょーもないと気付いても、一旦それを受け入れて肯定する余力が生まれてくる、と思う。


「ありのままの自分」を受け入れる、というのは、かつての私が思っていたような、輝かしいゴール地点では全然なく、新しいスタート地点でもあるんだな、と思う。

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