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最近の日記

最近もTwitterを見る時間が減ったまま生活をしています。 何かを考えること自体が減ったわけではない…と思うのですが、過度に考えを突き詰めることは減ったかもしれません。Twitterと言う外部刺激に触れることが減ったため、多分考えることの内容としてもっと自分に身近な事を考えて居られていると思います。 こうやって考え事を文章にすることは相変わらず好きです。 このブログ記事も考えたことのまとめですし、実際には私の感情の吐き出しかもしれません。 人間が「考えを文章にする」動機には、少なくとも二つほど別々の理由があるのではないか、と最近思っていまして。 文章を書く過程で、自分の考えをまとめていったり、自分で自分を理解したり、感情を吐き出したりする 一度まとめた考えを「他の人に伝える」という目的で形作って、表現する この二つです。 大体の「文章が上手い人」は既に"自分"についての理解度が高く、人前で発表する文章では後者を意図してやっている…と私は思っているのですが、実際にそれが正解かどうかは分かりません。 そして自分も含めた大体の人はこの二つの動機を上手く切り分けたり使い分けたり…といったことはできない、それ以前に意識もあまりしない、事が多いのではないでしょうか。 特に気持ちが揺さぶられたり傷ついてしまった時は、この二つの動機の垣根がさらに曖昧になり、「自分の内面について考えた感傷的で衝動的な文章を」「他人に伝えるフォーマットで」万人に届けてしまうような、そういったことが起こりやすく、 そして自分もおそらくそういった類の文章を書くタイプの人間である…と気づき、少し反省しています。 自分の内面を見つめて言語にする作業と、人に伝える作業は、可能であれば別々にした方が良いのだろう、と思います。 しっかりと目的意識を持った方が、その目的を達成しやすくなりますし、他の人に無用な傷つきを発生したりトラブルになる可能性を減らせますので…。 *** また別の話題になるのですが、最近 「政治と宗教の話を禁止」 という話題について考えています。(これは考え事の整理の方で、まだ自分の意見を整理してわかりやすく発表できるという感覚には至れていません) 具体的に言うと、 会話や意見発表の場を提供している側(これは巨大企業に限らず個人の場合もある)が、「政治や宗教の話題の場合、高確...

ロシアとウクライナの開戦がつらくて悲しいので文章を書く

ロシアとウクライナの戦争が始まってしまい、とても悲しい。 (何年も前から実質的には戦争状態にあった、という解釈もあるようだけど、私は今回の事態について詳しいわけではないので、そこについてはご容赦頂きたいです) なるべく情勢を注視していたい気持ちもあるけれど、 今日のご飯の事とかを考えるなどしてピントを意図的にずらして日常を送ることで心を守らなければ、という気持ちもある。 (東日本大震災の時は、繰り返し流れてくる津波の映像を見て、被災地に居ないものの精神を病んでしまった人がたくさんいたと記憶している) 私は、小さい頃から「戦争」という物が怖い。 公園で友達と遊んでいたら、空が赤く染まって、空に戦闘用の飛行機が沢山飛んでいる、ミサイルが落とされて町が燃えてパニックになる、みたいな夢を、何回も見たことがある。 私にとっての戦争とは、そのようなイメージなのだろうな、と思う。 日本の人間は、自分たちは敗戦国で、原爆を落とされた被害者だ、という教育を受ける。 私の想像している「戦争」像も、概ねそのイメージに基づいている。 実際には、日本の方が侵略国だったのに。 今回の件についての反応を見ていると、「自分たちの国が侵略国になる」というパターンが想定されていないことが多い、と思う。 それによって「憲法9条は役に立たない」などと言う非常にズレた意見も目立ったりする。 自国にプーチンみたいな政治家が居た時に、自国が侵略国にならないように政治家を縛るのが憲法9条なのだから、無くせば自国が戦争を始めようとした時に歯止めがなくなってしまう。 そして軍事力があっても、独裁国家である他国からの侵略を止められないという悲しい事実もあり、それを防ぐために、「平和的手段での問題解決の努力をしていく」という覚悟が必要なのだろう。 日本が侵略されるとしても、侵略するとしても、苦しめられて血を流すのは罪のない一般市民であるのだから、戦争なんて絶対に起こらない方が良い、と思う。 *** フィクションにおいて、「戦争」というテーマはよくモチーフにされる。 「戦争はつらく悲しく、起きない方が良い物だ」という考え方は、後世に是非語り継ぎ残していくべきテーマなのだから、当然そうなるだろう、と思う。 しかし、近年の日本のフィクション作品では、「戦争には、どちらにも正義があるのだ」「戦わなければ誰も守れないのだ」というテ...

政治と、生身の人間との関係を意識し始めた

自分の政治への見方が、少し変わったきっかけになった出来事について書きます。 地方自治体の議員さんを後援していたご老人から、たまたま、世間話の一環として後援相手の愚痴を聞く機会がありました。 「あの人はもうダメだ。下戸を理由に酒の席にも顔を出そうとしないし、最近は仕事よりも孫を可愛がるのに熱心すぎて、公私の区別も甘かった。そういう所を周りはちゃんと見ているし、だから見放された」 落選する以前から、周りの人間が忠言をしても省みず、結果汚職を疑われるようなことも起き、評価も落ちていき……という経緯だったそうで、悔しさ半分、諦め半分、というご様子でした。 私は、相槌を打ちながらその話を聞いていました。 私自身も下戸で、お酒の席は苦手です。ですが当時は、誘われたらなるべく行くようにはしていました。 お酒の席というのは本音の出やすい場所で、そこに積極的に参加する人「内輪」として仲間意識を持って貰える。逆に、そうでない人は陰で文句を言われるターゲットにされる。私はそれが怖かったからです。(我ながら俗物だと思います) ですので、目の前のご老人が言っていることは分かるような気がして、気が付けば力強く肯定的に相槌を打っていました。 今思えば、陰口を言われるという目先のことではなく、政治家であるならば特に大切な「人との信頼関係」そのものを軽視している姿勢を、その方は嘆いていたのかもしれません。 その議員さんも、落選したとはいえ立派な方だったのだと思います。 でなければ、私の目の前にいたご老人が一生懸命に支援したり、耳の痛い忠告をしたりはしなかったはずなので。 そういう話を聞くまで、私は地方自治体の議員をやっている人がどんな人かなんて考えたことがなかった。 私が想像するよりずっと、「生身の人間」が政治をしているんだな、と気づきました。 私にとっては政治は、長い間遠くの存在でした。 私は芸能人などにはあまり興味が無いのですが、テレビで見て、芸能ニュースと同じような感覚で政治を楽しんだり、メディアの報道する怒りに乗せられて怒ったりしていた気がします。それは自分事としての怒りとはまた違う怒りであったと思っています。 子供の頃、家族に選挙の投票先について聞いてみると、誰もが黙ってしまい、沈黙の理由すらも教えてくれない家庭だったので、家族に政治の話をするのはタブーなのだろうかと感じていました。 イン...

共同体への所属感の話

文章を書いていると、長い話を三行に纏める能力が欲しくてたまらなくなります。 今日は人間の所属する「共同体」の話をしたいと思います。 最近、人間関係を労力をかけてでも築いていくメリットについて考えています。 そして、ここ数日、政治の事や、自民党や維新支持層の厚さ、若者の投票率の低さ、などについても、考えることが増えました。 これはその両方から導き出した仮説なのですが、人間関係は面倒くさい物だ、地域の共同体などとは距離を置いて生きよう、という現代の風潮が、そのまま投票率の低さや自民支持などに繋がっているのでは……ということを、考え始めるようになりました。 共同体、例としては「親戚」「ご近所づきあい」「組合」「檀家」「職場の行事や飲み会」など。 私はこれらのどれにも縁が薄いため、極端な例として、小さな農村にもし自分が生まれ育っていたら、どういう生活をしていたか? を想像してみるなどしていました。 誰かが困った時は村ぐるみで助け合う。他の人に迷惑がかからないように、水路や道などの共有の財産を丁寧にメンテナンスする。お祝いごとも、悲しいことも共有する。村で問題があったり、祭りの日の前には、誰かの家に集まって相談会をする…。 何かしらの共同体に所属していれば、仲間の誰かにとって困ったことは、自分にとっても問題であり、「それは大変だ、どうにかしなければ」と仲間内で共有されます。 これが仲間内で解決できないことであれば、その土地の権力者に掛け合ってみよう、という発想にもなり、自然に政治にも意識が結びついていくでしょう。 それは自分のために贔屓をして欲しいとか、わがまま心で訴えるのではなく、仲間たちや仲間の家族のことをも考えた直訴になるのですから、真剣味も増すでしょう。 そこまではいかなくても、所属する共同体があり、そこで意見を交わし合う習慣があるならば、どのような政治を良しとするのか、という意見は、今よりもずっと出て来やすかったはずです。 政治への意識の高さ、というのは、共同体によって保たれていた側面があるのではないでしょうか。 よく言われるような、「現代の教育に問題があるから」「人権意識が低いから」「日本人の性格が従順で大人しいから」、投票率や選挙結果や、デモなどの政治活動への忌避感にそれが出ているのでは? という定説には疑問を感じます。 歴史の教科書を見ているだけでも、昔の日本...

選挙とか、身近な人の話(日記その2)

日付は変わってしまいましたが、2021年10月31日は衆議院議員総選挙でした。 休日だったので、のんびり起きて情報を調べ、選挙に行き、ちょっと贅沢な食事を食べました。 夜は近所の人と食事に行き、人と一緒に開票速報を見ながら意見を交わすという、一人暮らしの人間にはなかなか出来ない経験ができました。 私が言う「近所の人」は、家の近くで個人経営の小さい喫茶店を経営している店主さんと、そのお店で知り合ったお客さんです。 今日行った食事のお店も、年配のマダムがやっていらっしゃる、10席もないような個人経営の小さなお店です。家庭料理が美味い。店主さんとマダムがお互いにお互いのお店に行き来する仲で、コロナ禍でお互いにお店が開けなかった時期が長かったため、今日は顔を出したいのだと、店主さんは仰っていました。 「頻繁に顔を出したり、無理をして行く必要はないけれど、何かあった時の折り目折り目に顔を出すと、相手の人も喜んでくれるし、そういうことが大事だよ」 そういうことが、人間関係をやって行ったり、地域で商売をやっていく上で大事な「義理」なのだろう、と思いました。 話は変わりますが、同い年の旧友が共通の知人と結婚したとのことで、連絡をしてくれました。めでたい! 自分がありつつも大人しい~方なのですが、しきりに「薪は今、ネットと職場以外の人との繋がりってある?」と心配してくれるので、何か心境の変化があったのかなと、ちょっと驚きました。 先に言った近所づきあいの話をすると、それは良いことだ、と安心してくれました。(私の親かな?) 聞くと、友人自身もそうですが、(結婚の知らせのために連絡を取っていると)友人の友人も含め、「仕事以外に人付き合いがない…」という状態の人があまりにも多いとのこと。 友人は、仕事で忙しく同人活動も行えなくなり、創作意欲もコンテンツを楽しむ気力もなく、ネットでの人との繋がりも薄れてしまったようです。 そうして、現実での人との繋がりが大切だ、と改めて思うようになった、と教えてくれました。 最近、私自身も、自分の人間関係の築き方に課題があるな、と考えていたところで、 その上で周りの人からこういうことを言われたため、どちらも印象的な出来事になりました。 私のような若者が帰属する場所が今は失われている、親しく言葉を交わす人間が居ない、そういうことが若者の政治離れや、現状の選挙結...