「言語化できるようになりたい」とは、どういう意味なのか


ツイッターでこのようなツイートを拝見した。
ツイートをされているのはジロウさん(中井 治郎さん)という方で、社会学者さんだ。
よく面白いツイート(特に京都に関するもの)がバズって回ってくる方というイメージで、印象に残っている。


私はこのツイートを見ながら、まず「あぁ~そういう傾向あるよね!」と共感した。
かくいう私も「言語化できるようになりたいな~」という願望を抱えたオタクだった。

ツイッターでのオタク界隈は、古の「おたく」のイメージに反して「言語化が苦手」という人が多く、そのため作品制作によって感情を発散したり、感情表現が大雑把で極端な物になったり、叫び声やミームに頼ってコミュニケーションを取る人が多い。
そういう人間が、自分の考えを代弁してくれるような明晰なツイートを見、自分と比較して気づくことが、「そうか、自分には言語化能力がないんだな…!!!」という事実であったりする。

そういう「流行の波」は、確かに今のツイッターにはあるのではないか? と私は考えた。


でも、それを学者の人が言うのって、
神絵師が、
「どうして絵が描けない人って「絵の描き方を知りたい」とか「絵が上手くなりたい」とかじゃなくて、「神絵師になりたい」って言うの???」と言ってしまうような、人のコンプレックスに右ストレートを打ち込むようなセリフじゃないですかぁ!?
と、少しだけ私はドギマギした。
(※「神絵師」という表現を私はあまり肯定的に見ていないが、「憧れの対象」という文意を伝えやすいと思ったため、今回はそのまま使っている。ご了承いただきたい)


元・言語化苦手なオタクによる反発心が出てしまった。

実際には、このツイートによってコンプレックスを刺激される人は存分に刺激されて、その反発心を言語にしてみれば良いのだと思う。



前後のツイートなどを見る限り、ジロウさんの考えとしては

  • 「言語化したい」というアウトプット欲求の前に、本来であれば「知りたい」というインプットの欲が存在しているはずだ
  • 何もインプットせずして、「アウトプット」するような価値のあるような物が内面にあると考えるのは、自分の内面の価値を高く見積もりすぎではないか?
  • 「知りたい」欲求や、インプットは大切だよ


という前提の上で、このツイートをされておられるのでは、と感じた。


私はこの考え方に共感するところもあれば、「いや、ここが違う」と思える点もあった。


共感した点は、「『言語化できるようになりたい』と言う人は、自分の欲求が何なのか、そもそも把握できていない」という点だ。

自分の内面を「知りたい」のか?

胸につっかえているモヤモヤしたものを、明確な形で吐き出したいのか?

作品を見た時、自分の解釈や感想を、自分で語りたいのか?

それとも、「バズる人」に憧れるのか?

あるいは、「言語化できなければならない」というプレッシャーを感じているのか?


それらがすべて「言語化できるようになりたい」というワードで語られており、
逆に、「言語化できるようになりたい」という単語の内面に一体何が隠れているのか? は言語化されていない。
その内面に合う適切な言葉を探し、解体する事が「言語化」だと私は考える。

だがそれは、「言語化できない」と思っている当人にしか出来ない事であり、そしてそれが出来ないから「言語化できるようになりたい」わけで。
結果的に「言語化できるようになりたい」という言葉は、たくさんの意味を詰め込まれながらも決して開封されない、ブラックボックスのような言葉に感じられる。


ちなみに、「ここが違う」と思う点は、
今「言語化できるようになりたい」という段階にある人は、おそらくは、高度に知的な「価値のある」情報を出力したいわけではなく、その前の段階、自分の内面を把握して言葉にする段階で躓いている事が多い、という事だ。
その場合、言葉にする情報の価値を第三者が問うのはかなりナンセンスであると、私は考える。

自分の内面を把握して言語にする能力は、「睡眠」や「食事」と同レベルで人生に関わる能力であり、それができないことは、本人の不利益に繋がりやすい。

そして、「それができない」ことに困っている人間は、目につかないだけで、相当な数存在している。

自分の内面に言葉のものさしを当てて、「こういう事を私は考えていたんだ!」と把握するために紡がれる言葉は、第三者にとって一切意味が無くても、間違いなく、当人にとっては重大な意味と、高い価値を持つ。

自分がイライラしているのか、眠いのか、それともお腹が空いているのか。
自分がどんな願いを持っており、どんな手段でそれを叶えられるのか。どんな生き方がしたいのか。
言語化ができない人間は、それを語る以前にまず把握できない。

それは本人にとって、とても不利益で、悲しいことだと思う。

それを改善したいのだ、と感じる人が増えるという「流行り」が生まれたなら、それは非常に良いことだと、私は思うのだった。


***


長くなるけれど、自分の話をする。

私は元々、学校教育の国語は得意だったけれど、自分の内面を見つめず、創作や被害者意識に逃げる性質のために「言語化が苦手」な人間だった。
10代の頃、私にとっての言語化は、モヤモヤを形にして楽になるためのツールではなく、自分を全否定と全肯定の極端な位置に固定する、かなり悪い効果があった。


「言語化の流行は良いこと」という前言に反するようだけれど、自分の経験上、
自分の願望や自分の被害者意識に酔ったままそれを言語化しても、客観視をそこに差し挟めないなら、人間はそこから楽になる事は出来ない。

勿論、「今自分はこんなことを感じていて、つらいのだな」ということを言語にしてみて把握し、受け止めることは大切だ。
だが、「では、これからどうして行こう」とか、「自分の行動をどう変革していこう」という視点を一切持てないなら、永遠にそのつらい感情に自分を閉じ込めてしまう可能性もある。


私は、自分の感情を言語化するのは苦手だったが、
人の文章を読むときには、自分の狭い視点を広げてくれるような、観察眼と自分を正しい方向に導こうという意思があり、言語化の上手い人の文章が昔から好きだった。
自分が知らないことを知れるのが好きだった。今まで自分が当たり前だと思う事が、人にとっては間違った考えだと知れるのが楽しかった。

そして、いつしかそういう風に、自分も視点を広げて認知の歪みを取るような方法で自分の内面を言語化したい、自分を楽にする言語化をしたい、と思うようになった。
それは、ツイッターアカウントを作ったここ二年ほど(長くても、この数年)で、割と最近だ。
しかし、「自分の認知の歪みを直したい」と思うようになってからの言語化は、目に見えて自分の精神を健全化する、劇的な効果があった。
なので人には、そのような目的での言語化をオススメしたい気持ちがある。


私は、その作業に、人様のツイッターアカウントなど、思考が自分よりフラットで望ましく健全な人たち、読んでいて自分が楽しいと思える文章を書く人たち、の思考の情報を「お手本」として用いた。
一から自分の認知の歪みを取るよりも、お手本や比較対象(これはボロクソに貶したい価値観でも良い)があった方が、「自分の考え方」を持つのがずっと楽だった。

だから自分のツイッターアカウントも、「後から来る、同じような作業をする人の参考になれば」という目的で運用していた。
もしかしたら、言語化が苦手な人が、「こういう意見もあるのか」とか、「私もこう思う」と主張するために、私のツイートを上手く道具として使ってくれるかも、と期待した。

でも、「そういう人に向けてのツイートをしたい」という気持ちに引っ張られるうちに、自分の中の「人の役に立たなければ」というコンプレックスに気づいて、人の為のツイートをすることは辞めることにした。


言語化できない人にとって「役に立つ」ツイートとは、一体どのような物が良いのか、私には最早わからなくなった。
それを決めるのは当人なので、私が考えて決めることではないのだと思う。
「薪さんのツイートは参考になる」、そういう風に言ってくれる人は、もう既に自分で語れる言葉を持っている人だ。

言語化できるようになりたい人は、別に人のツイートを道具として使いたいのではない。人の言葉でしか何かを語れない状況がつらくて、自分の言葉で、「自分で言語化したい」のではないだろうか。と思う。

「鬱ごはん」という漫画に、めんどくさいがために映画を見ても感性の近い人の感想をRTして済ませる、というシーンがある。
けれど、別に「省エネ」ですらなく、自分の言葉が紡げないので近しい感想をRTするしかない、という段階の人も存在しているはずだ。
そういう人が「感性の近い人の感想」を見て思うことは、「それそれ!」だろうか、「この感想があって助かる」だろうか、「こんな風に感想が語れるようになりたい」だろうか、「自分の感想が上書きされる」だろうか、「人の感想でしか語れなくてつらい」だろうか。

自分の言語化で誰かが助かる可能性を一方的に期待するのは、もしかしたらとてもおこがましいのではないか?

本当の所は、「言語化できるようになりたい人」が勇気をもって言葉にしてくれるのを待つしかない。


***


言語化の話題からは少しずれてしまうが、別に、気になる話題があった。

最初の話題と関連したものかはわからないが、「今のツイッターでは、感想を語るのが怖くなった」というツイートを複数目にした。
そして、その「なぜ怖いか」が一様に「他者に倫理観が無いと判定されるのが怖いから」だったため、私は地味にびっくりした。

別に、「オタクは倫理観に無頓着だと思っていた」から驚いたわけではない。
倫理観を常にアップデートしているオタクを、私は多数知っている。

では何にびっくりしたかと言うと。
私は「読解の正しさ」という物に神経を使うオタクで、自分の「好きな作品のここがわからない!!」という点を理解するために労力を割く。
自分の妄想と公式で語られた内容の区別をつけるが、それはそれとして「公式はああだったとしても、私はこういうのが見たいんじゃ!!」という情熱をぶつける。
私はそういうものが「オタク」だと思っていた。

だが、「公式の読解を間違えていると他者から判定されるのが怖い」というオタクと言うのは、実はとても少ない。
その人たちが急に「倫理観が無いと思われるのが怖い」と言い出したため、「読解の正しさについては何も気にしなかったのは、"他者から判定されるのは怖くない"わけじゃなかったのか…!!!!!!!」と、私は驚いてしまったのだ。
冷静に考えればそりゃそうなんだけど……。

社会問題クラスタには、倫理観の至らない相手を責めすぎる風潮があり、その点については問題があるよなと私は常々思っているため、学ぶ前から「倫理観が無いと思われるのが怖い…」と言うような人にも、ある程度の同情の念を感じている。
(実際このような人たちは、「人権? 何それ美味しいの?」というオタクよりは、ずっと人権問題に興味がある方のオタクであろうが、そういう人ほど、言葉が通じる人間として人権意識の低い人の分まで責められるのが世の常である…)
また、「倫理観が無いと思われるのが怖いから、人権問題について興味を持ち、勉強してみる」などの解決策もある(実際私はそうした…)ので、そちらもおすすめしたい、と感じる。

ただ、責める側だけでなく、「責められる側」の問題、精神耐性のなさなどの問題が大きいのだろうな、と私は感じた。
そしてそれが、「責める側の悪意や攻撃性が高い」かのように語られる場合もあったので、(もちろんそういう場合もあったが、そこで語られている理屈に私は納得が行かなかったので)私は違和感を感じている。

「あなたの読解間違ってない?」と言われるのは怖くなく、「あいつの倫理観やべーな」と他者から思われるのは「マウント」で「ジャッジ」であり怖いという人間心理は、どのようにして起きているのだろうか。
おそらくは自分を「被害者」だとして、マウントやジャッジを一方的にされる側だ、という防衛機構が働き、前者は「人それぞれの解釈があるのに、口うるさい意見を言われた。正しさでマウント取るのはダサい」という被害者意識に繋がり、受け身を取ることができるが、後者は「自分が加害者側だと見られるのでは」という未知数の恐怖心があるのではないだろうか?

「自分は常に被害者」「マウント・ジャッジはいつも自分が受ける側」という固定的なロールを自分にイメージし、そこから自分が変化していくイメージも持てない事により、「お前は加害者だ」と言われるのだけがピンポイントで怖く、過剰に人目を気にしてしまうほど恐怖心が強くなってしまうのではないだろうか。

  • 失敗しても、失敗から学べば大丈夫(変化できる)
  • 人から多少責められても死なない
  • 自分もマウント・ジャッジを日頃からしていると意識してみる
  • 自分が常に被害者、という考えを改めていく
  • 恐怖心を勉強などのための前向きな行動力に変えるのも良い
  • でもどんなに勉強しても難癖をつけられることはあるので、最終的には慣れ

というような解決策が、「怖くて感想を言えない」という状態への対処として思いつく。


私の場合は、人権について学ぶ以前の話だが、
フィクション作品の読解を突き詰めて考えて、人の感想に対しても「それは読解として間違ってるな」と感じたり、自分の解釈語りが人の「正しくない」解釈とは相反するものであることを意識するようになってから、「自分も変化できる」「自分は一方的にマウントを取られる側ではない」という意識が強くなった。

意志薄弱で八方美人な振る舞いをしているうちは「人から一方的に否定される可哀想な私」に酔うことができるが、
自分が人を否定することもある、人を嫌うこともある、それは罪ではないと気づければ、徐々に現実的な認知状態に自分を戻すことができるのだ、と気づいた。



被害者意識は言語化の効能を下げるだけでなく、間接的に「言語化する勇気」を損なう、という結論になった。
また、「言語化できない」ことは、困難を多数発生させるだけでなく、それ自体がコンプレックスや被害者意識を発生させるものかもしれない。
それでも、言語化によってその困難も解決していくことができる可能性がある。
今「言語化できるようになりたい」と思っている人は、是非少しずつでも自分の内面を言語化して行ってみて欲しい。
応援しています。

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