落ち込みを解体する

とても落ち込んでいる。


私の不注意で、ノートパソコンを壊してしまった。その事自体には落ち込んでいない。
いつもパソコンの調子が悪くなってきてからバックアップを取る悠長な人間だったため、バックアップは残っていない。その事にも落ち込んでいない。
ノートパソコンを修理屋に持ち込み、もう一度使えるようにするのは無理だと言われた。そのことにも落ち込んでいない。

データの救出(勿論、確実ではなく、データが一部消える可能性は高い)には、相場では3〜5万程度の予算が必要だと予め知らされた。

私は、自分で言うのも何だが、貧乏である。
貧乏ではあるが、3〜5万は出せなくはない額だ。
だが私は新しいパソコンを買うことにすでに胸を踊らせていた。
ノートパソコンではなく、ノートパソコンよりも相対的に安価で性能の良いデスクトップのパソコンを買うのがここ数年、ずっと夢だった。
私はイラストレーションを趣味にしており、性能の良いパソコンを買って、隣接する分野のLive2Dや動画作成などの分野にも手を出すことで、能力を伸ばして、将来的には何かしら小遣い稼ぎが出来ないだろうか…という、淡すぎる希望を抱いているのだ。(そうでなくても趣味としてやってみたい)

というわけで、自分の中で、この程度の額であれば後悔のないように出すだろうが、これ以上の額であれば次のパソコンを買う資金に充てたい…という揺れる気持ちがあり、悩みながらも実際の金額提示を待っている。


だが、パソコンを壊したときの反応が「あ〜あ…まあいいかタブレットもあるし…スマホとタブレットがあればしばらくパソコンいらんし…」だった人間が、貧乏なのに、バックアップを取らない程度のデータ(絵などはほとんど自分でツイッターなどに載せているし…)を救出することにお金をかけることにどの程度の意味があるのだろうか…と疑問に思ってしまっている、のだ。



話は変わるが、私は今の自分の労働状況を「一時的に苦しい」と感じている。
とても好きな仕事だが、単純に「今現在、人が足りていない」ゆえの忙しさが深刻だ。
これが一時的であると分かっている(4月になれば人員不足が解消される)ゆえに耐えられるが、恒常的にこの状態が続くのであれば職場に見切りをつける必要も出てくるだろう。
そう思った時、今以上に好きな職場環境は望めないし、そもそも私は再就職出来るかも怪しい…などと考えると、「一時的に苦しい」どころでなく、人生における働く苦しみ、未来のなさ、みたいなものに意識が接続されてしまう。


パソコンの話に戻る。

データを復旧するかどうか、と思った時、過去の自分の思い出のような物が沢山パソコンに残っていることに気づく。
それは思い出であって、棚の奥にほこりを被っているアルバムのようで、なくても困るものではない。断捨離の対象にしてしまっても良いものだと思う。
もちろんその思い出があったことは今の私の糧になっているのだが、形としてずっと残しておく必要もない。
私がそのジャンルで生きることを諦めてしまったジャンルの、もうきっと人生で二度と喋らないであろう人たちから貰ったイラストのフォルダもある。
きっと見ればつらくなるだろうし、しかもきっと復旧にお金をかければ新しいパソコンを買うのは遠のくのに、復旧される意味はそんなにない気がする。

データを復旧させなかったとしても、きっと私は前だけを向いて、新しいパソコンとの生活を始められるだろう。


そう思った時に、なぜか、ものすごく「落ち込み」が発生してしまった。


私はこの時、仕事に関して「お先真っ暗なのではないか」という気持ちを薄っすらと抱えていた。
そして私は、過去の思い出を切り捨てて、私が未来を生きるには必要ないと断じようとしていた。

未来もないのに、過去を諦めて捨ててしまうのか?
それは私が私を軽々しく扱い、無下にする行為ではないだろうか???

そういう考えが瞬間的に頭をよぎって、「わからなく」なってしまった。

希望という言葉は未来は紐づいているように思っていたけれど、私の過去の中にはたくさんの希望があったのだと気づいた。
やり残したこと、もう会えない友達、昔の憧れや夢。もう叶わないけど叶えたかったこと。
私はそういうものを懐かしんでただ悼んでいた。
悼んでいるだけであるならば時間の無駄で、もうきっとさっぱりと捨てて前を向くべき時期だったかも知れないと、同時に思っている。
でもそれは冷酷で、自分を捨てるような行為でないか、と思うようになってしまった。
一方で、お金は未来のために使うほうが良いのでは、それこそが自分のためでは、と思う気持ちもあって。

わからなくなってしまった。
どちらを選んでも後悔が発生する、どちらも間違っている選択肢が提示されている状態になってしまった。
私がお金持ちであれば、きっと後悔はない選択が選べたのであろう。しかしそれを考え始めれば余計に落ち込む、と思う。


***


長々と語ってしまったが、このあとの行動は「お金を払って、データ救出を頼む」か「諦める」の二択であり、この簡潔な選択に特に悩みや落ち込みというものは不要のものに思える。
提示された金額が高いと思えば買わず、安いと思えば買う、単なる商取引だ。

ていうかデータ救出を頼まなかったら自分の人生を切り捨てたことになるというのも意味がわからないんだが??? 認知の歪みなんだが???

私自身は、ここ数年メンタルを保つことに非常に情熱を傾けている人間であり、「この程度のことで私が落ち込むはずがない」という謎の自信も持ち合わせており、なんていうか、頭の一方で落ち込みながらも、頭のもう一方では元気なのである。
また、「程々に忙しい」というのはメンタルヘルスにいい影響があり、自分の悩みを反芻して悪化させる暇もあまりない。


この私の自己認識と「落ち込み」の間に、不思議な乖離があると感じたため、その乖離には何かしらの理由があるのでは? と私は睨んでいる。

つまり、落ち込む必要のないところで、認知の歪みからわざと落ち込もうとしているのでは?
それによって得ている利益があるのでは?
と、自分の感情の動きに対して疑ってかかっている。



想像ですが、
私は、「絶望した、可哀想な自分」に何かしらの価値があると頭のどこかで考えており、そのために自ら落ち込みそうなシチュエーションを見つけた瞬間にわざわざ落ち込んでいるのではないだろうか。

その価値とは、他人からの「優しい対応」や「興味」「期待を叶えてくれるような対応」などを引き出せることではないのか?

もっと言うと、私は心の何処かで、健康でメンタルが安定した自分には価値がないと感じているのだ。
価値がないというのは、この場合では、他人からの心配や承認や肯定を得られない、という意味合いを指している。
健康でメンタルが強くある時は、私は他人からの心配や承認や肯定を得られない、興味を持たれないので、私には価値がないのだ、と感じている。

不健康である人間は、か弱い人間は、他人からの心配や承認や愛情を受けやすい、という誤解が根深く私の中に残っている。
私は他人から承認や肯定を得られない、なぜなら健康で元気で明るくて勉強ができる手のかからない子だから、という思い込みが、不健康で病的で勉強も何もできなくなってもまだ残り続けている。


私はおそらく、「私は本当は他人から肯定、心配、承認、自己決定の尊重などをされる存在であると確かめたい」と切に思っている。
それは「私はなるべく他人からも肯定、心配、承認、自己決定の尊重などをされるような存在でありたい」という願望とは似て非なるもので、
努力の方向としては間違っており、私が弱っている時だけ顔を出す「試し行動」のようなものだ。
試し行動にあまり利益はなく、やられた側もやる側も消耗する行動だろう。
(逆に、責任を負って自己決定を貫いたり、良好な人間関係を保つなど、そのような扱いをされるような存在に足る人間であろうとすることには価値があると思う)

普通に接していて、他人に対して心配や本人の意志の尊重などが出来ない人は、相対的にコミュニケーションに難のある人であり、一般的なコミュニケーション能力の人であれば、相手を心配する態度などは普通に表に出す。本当であれば、わざわざ試す必要などないことだと思う。
平常時の私はそれを分かっているから、他人との関係性に安心感を感じる事も出来る。
なのに、落ち込むと急にそれができなくなるのだ。(絶望を有効活用して、他人に根源的な不安に関する試し行動をしたいからだと思う)


私の中では、「私は他人から心配や肯定や承認や自己決定の尊重などをされるべき存在なのに、それをされてこなかったので嫌だし、他人は私が尊重されないことや不幸になることを本当は望んでいるはずだ、なぜなら私は健康で元気なので」という、支離滅裂なコンプレックスが根付いている。


勿論、健康であることや不健康であることと他人からの扱いに実際には相関性はないと、頭では理解している。
体が弱くて苦労されて来た方にはお詫び申し上げたい。


このコンプレックスを解体したいと思っているのだが、上手く解体出来ないのだ。
このコンプレックスの解体のために、信頼している人からの忌憚のない意見などを求めたいけれど、それが私の試し行動に沿ったものになってしまうならば試し行動を強化してしまうことになるので、切り口はそこではない…と考えているうちに、何を聞けば良いのか分からなくなってしまう。

落ち込んでいる私は、私は人から尊重されないという思い込みを持っているため、人に例えば「〇〇を我慢して××をする」と決めたことの話をして、相手から「〇〇を我慢せずに試した方がいいよ」と言われた時、「自分の決定を尊重されなかった…やっぱり私は人に尊重されないんだ…」と思ってしまい、落ち込んでいる(ギャグみたいだが本当)
これは、自分の期待通りの反応を相手にロボットのように求めてしまっている状態で、あまり良い状態ではないような気がする。
なので、一つの悩みについて人に相談する形では解決が難しいかも知れない。


どうしてこういう支離滅裂な認知の歪みが発生しているかと言うと、私が幼少期のつらい気持ちをそのまま引きずっているせいである。(これはかなり強めに断言できる)
私の両親は私に関心や愛情を感じさせる人ではあまりなく(勿論本当に愛情がなかったわけではなく、適切な行動や感情表現などが出来ない・しないという親として大きめの問題があっただけだとは思う)私は他人からの心配や配慮などに飢えていた。

私は、私が欲しいような「大人が心配や配慮を示す」というシチュエーションが、体調を崩した子供や落ち込んで泣いている子供、生まれつき障害があって手がかかる子供にこそ注がれているように見えて、羨ましかった。(当人はめちゃくちゃしんどいのに羨ましがるなボケという感じであり、申し訳ない)
両親の関心は男きょうだいに注がれているように見え、また、その男きょうだいは体が弱かったので、両親はしょっちゅう男兄弟に手をかけて、甘やかしていた。
逆に私は幼少期は健康で元気で手のかからない子供だった。「そのせいで」自分の期待する形では手をかけて貰えなかったのだと、自分では思ったりもしていた。

実際の所、私が病気をしても手をかけてもらえたわけでも、心配されたわけでもない。
学校でインフルエンザで高熱を出した時も家にいる父親は迎えに来なかったし、大きな病気の疑いで病院に連れて行かれた時も、その病気の疑いが晴れた帰り道も、母親はずっとイライラして逃げ場のない車内でずっと私にイライラをぶつけていた。
風邪を引いて熱を出して寝込んでいても雨の中仕事を手伝わされた事がある。

私が、パソコンが壊れかけるまでバックアップの必要性を感じないように、たとえそれが必要なものだとは思っていても、私の両親も私が目に見えて壊れかけるギリギリまで、私が壊れる可能性がある存在だということが認識出来ない、適切な対応の取れない人間だったのだろう。

単純な男尊女卑、女児への差別を受けていたのだ、という認識もある。


ただ、「そういう理由で親からさえも心配や配慮を受けられない、大切にされたと感じられないのは理不尽過ぎるだろう」という気持ちが私の中にあり、それが理不尽な扱いをされることに対する怒りに向かえばよかったのだが、幼少期の私は「私が不健康であれば、落ち込んでいたり苦境にあれば得たかったものがきっと得られるはずだ」という形で希望を持とうとしてしまった。
私は本当は絶望して怒るべきだったのだが、そちらの方向にエネルギーを向けられなかった。


それが私の中の世界観や価値観を歪める結果になり、実際に私は健康を害してしまったし、未だに苦しむことになっている。
健康に価値がないという倒錯した価値観を持つ人間、自分が不幸になり不健康になるほど周りが喜ぶと強固に考える人間の人生が悲惨なものになることは想像に難くないと思う。


***


この価値観の解体をしたいのだが、私はもう、頭ではそんな価値観を信じていないし、健康は大事だと考える新しい自分の価値観をその土台の上に組み立て始めてしまった。
これは腐った土地の上に家を建てて欠陥住宅にするような行為かもしれないし、逆に腐った土地の上に植樹をして地盤を固めるような良い効果のある行為かもしれない。それは私にはよくわからない。
とりあえず、今の私が生きやすくなる対処療法的に正解な生き方なことは間違いがない。

弱った時に顔を出す、過去の自分の亡霊のようなものを退治したい。
そのためには、その正体を把握するのが大切だと、私は考えている。
その弱った自分の期待する通りに動いても、おそらくは悩みは解決しないからだ。なぜなら今までその悩みはその思い込み通りに動いても解決してこなかったのだから。その価値観は間違っており、捨て去るべきだったのだ。



ここまで分かっていて自己解決が出来ないのは何故だろう。
結局のところ、自分で思い込みを正しただけでは不十分で、「他者」によって否定されなければ、他者から不幸を願われている可能性が存在するという思い込みを否定することは出来ないと、私が考えているのだろうか。
しかし、それは過去の試し行動をしたいという願望の強化であり、過去の自分の思う壺であるような気もしてしまい、私は行動に出られなくなってしまう。

また、世の中には他者の不幸を願う人は僅かながら存在しており、「他人は他人の不幸を願ったりしない」という、白黒の考え方を持つと心が折れやすい、と思う。


あまりスッキリとした解決は出来なかったが、今後も、心が弱らない程度に自分の良くない思い込みを払拭出来るように頑張ってみたい、と思う。

コメント

このブログの人気の投稿

「言語化できるようになりたい」とは、どういう意味なのか

最近の日記

Twitterからのお引越し