カップリングって…なんなんだ…?

最近、「カップリングって何なのかな…」みたいなことを考える機会があり、
結論は特に出なかったのだが、それについて考えたことをメモとして記していく。



一般論として、カップリングという概念は、キャラクター二人を恋愛関係として表すための同人用語、らしい。
また一般的にはキャラクターの並び順は「攻め」「受け」という概念で固定さており、攻め×受け、という表記がされる。
「攻め」と「受け」は挿入の方向性(攻めが挿入する側、受けがされる側)で決まるという解釈が一般的に採用されがちだが、感情の向きでのカップリング表記が採用されることもある(女性キャラの側が恋愛感情が強い男女カプにおける、女性キャラ×男性キャラ、など)
このキャラクターの組み合わせには萌えるが、左右は不定(リバと呼ばれるパターンもある)という場合もある。



私の場合の使用法について自分で思い返して、メモをする。

私の場合、

二次創作作品を描くとき、

原作沿い・原作の関係性の中でありえる話・恋愛感情などが面白さの主題や前提になっていない話を描くときは、カップリング萌えしている二人であってもカプ表記をつけない。

自分の願望としてカップリング要素を自ら入れている自覚がある、原作の関係性から変化があった後の話、恋愛要素を楽しんで欲しい、と思った作品の時は、カップリング表記をつける。

ここまでは、作品に付けるラベル、需要と供給のマッチング、のような話だ。

そして、ややこしい事なのだが、原作作品への感想としては、
「ここに巨大感情がありましたよね」という感想の表明として、カップリング表記を使う。
(それは必ずしも「この二人付き合ってるよね」とか「セックスしてるよね」みたいな意味ではない。巨大感情である)

これが「恋愛感情」に限らない点には自分の趣味が関係しており、
私は性格がとても悪い邪悪なラスボスキャラが好きなのである。
到底人間を大事にしたり恋愛関係になってそれを楽しんだりはしそうにないキャラが好きなのである。
だが、そういうキャラクターと思想が全然相いれない敵対的間柄の光属性主人公のカップリング、良くない!? と思ってしまうのが私なのだ…。
この場合、カップリング表記をしたとしても、まず「恋愛関係」にはならない。
だが、自分が「原作の枠を超えて、この二人がどうにかなってる様を見て見たい!!! お互いの思想の違いをぶつけ合ってどうにかなってほしい!!!」という強めの願望(幻覚)を、カップリングと言う表記の曖昧さをいいことにお借りして、願望紹介として述べていることになる。

この場合、作品と感想で用法が異なっている、ということになる。
ちなみに、この用法(願望なのでカップリング表記)で全く恋愛のない話を描いた場合、そこにカップリングタグを付けるのは忍びないので、何かしら性愛や恋愛要素もおまけとして入れたい、という感情に寄る可能性もかなりあり、これはつまり、カップリングと言う表記の「恋愛関係」という一般的定義が、私の表現の方向性に影響している、縛りを与えている、という可能性がある。

ちなみにカップリングは表記に性愛の挿入方向性を入れてあるのだからセックスありきと言う主張には同意しないし、流石にそれは定義として狭すぎと言うか、カップリングはもうちょっと幅広い概念では? と思う。
ただ、この表記様式が「左右の定義のためにセックスシーンを書かなければ、あるいは妄想しなければいけないのでは」という強迫観念を生みかねないなら、この表記の仕方や左右固定意識がカップリングと言う様式を使う人間の考え方に影響している、という可能性はとてもある。


また、作品に対して一個一個ラベルを貼ることは、見てくれたり探してくれる人への親切心や生産者による「私はカップリングのつもりで描いています」という自己主張だが、
原作語りに混ざるカップリング要素は、自分に付けるラベル、自分はこのような物の見方をします、という表明である、ような気がする。

私は、好きなカップリングに関しては割と左右固定の気質が強く、
それは逆カップリングの人は私と倫理的に価値観が相容れない・苦手な感性の人が多い為で、(別に同カップリングなら何でもいいわけではないのだが、同カップリング者が少なく、苦手な同カップリングに遭遇しようがないのだ!!!! 悲しいね…)
このような左右固定感情は、なんというか、作品に対する苦手意識と言うよりは、人間に対する苦手意識に基づいたものの要素が色濃い。

この苦手意識からのダメージを避けようと「他者に要求をする」という手段を使うと、
作品へのラベリングでは足りず、「卵は使われておりませんが、同じ工場内で卵を使用した製品を作っています」みたいな表記を無理やり求める方向に向かったり、
「うちは卵アレルギーの人も絶対に安心の作品だけを作り続けていきます!!!」という人を熱烈に求め、その人が卵が混じった食品を作った途端に心理的ショックを受ける、というような方向に尖って行ってしまいやすい。
例として食品アレルギーを出してしまったが、食品アレルギーは実際に命にかかわり、表示が義務付けられているが、カップリングの表記にそのように人間にダメージを与える要因はなく、表記に義務や責任はない。
つまり、配慮しろ配慮しろと求めるのは合理的ではなく、到底人に求めて良い配慮の程度の強さではなくなる。

そのため、私は基本的には、苦手な物があってもなるべく配慮は求めたくないし、求められたくもない。

「自分は苦手な物が多いので積極的に人の作品を見に行かないし、好みではない作品を見た時に(直接)文句は言わないし、その代わり好みの作品は共有したり感想を述べる。自分の好みについてもバリバリに言語化して喋っていくので、私や私の好みの事が苦手な人は自衛して欲しい。私は他人のために好みを曲げたりできないし、それを人にも求めたくない」という二次創作スタンスで生きている。
言い方は悪いが、私のカップリング観や価値観が苦手だと思う人には早い事遠ざかって貰えた方がありがたいため、「こことここにカップリングを見出している」みたいな話は積極的にせねばならない、という義務感すら感じている…。

でも基本的に原作で激重感情がある組み合わせに萌えてしまうので、主な取扱カップリング以外のカップリングの名前を出すことはほぼないのだった…。


ところで、
「原作沿い/そうではない恋愛軸・願望軸」という方向性でカップリング表記の有無を使い分ける場合、原作内での恋愛関係があるキャラクター同士のカップリングは、私の中でどのように扱えばいいのだろうか?
おそらく、私はカップリング表記をした上でそれに萌えるのだとは思うが、今までそういうカップリングにハマったことなかったんかい!!!!!!!!!! という謎の気づきに襲われている。


また、私のように「恋愛とかしなさそうなキャラクターAが他のキャラクターBに意味不明な感情を向けているさま」に萌えながらそのままA×Bと表記できるのは、(これは私の性格的に)「Aは身体男性で、同性愛行為自体には嫌悪感がなく、自分の強さに自信があり、他者を心身共に屈服させるのが好きでそれを楽しめる支配欲・加虐欲の強いタイプの性格なので、セックスポジションにおいても自分が挿入側しかやりたがらないタイプであろう」「あとBは性愛対象がほぼ女性で、性愛感情はごく限られた親しい人にのみ向けるタイプで、性愛対象の性別以前にAには友愛も好意も持ってないので性愛感情を持つことが出来ない」みたいな読解ができるため、読解と感情の向きと挿入方向と世間一般でのカップリングの表記定義が全て合致しているため、スムーズに表記した上で「A×B!!!! 絶対にA×B!!!!」と叫べるだけである。

Aが女性キャラクターであったり、責任回避傾向があり他者から挿入されることを受け身で望むorもうちょっと倒錯した快楽を追うタイプであったり、私的に「絶対に受けであってほしい、性格的には攻めだがポルノ的には受けの方が萌える…」みたいな葛藤がある場合は「カップリング表記しない。保留」という逃げの手が打たれるパターンになる可能性が想像に難くない。よわ…

これは私の性格的に、と注釈を付けるのは、「別に人が一般的につけているカップリング表記の形式に囚われる必要なくない?」という感性の人や、「そもそも挿入形式の表記がおかしい」とか「読解そこまで大事か? 願望もっと配点でかくないか?」とか「恋愛感情じゃないんだったらカップリングつけるのはおかしいのでは?」という人が同じ組み合わせを表記しようと思った時はまた思考の中身も結果も全然違うことになるのではないだろうか。と思うからです。


***


「カップリング」という概念の表記方法、「カップリング」の内訳、どのタイミングで「カップリング」表記をするか否か、と言うのは、おそらくは本人の趣味・趣向、好みのキャラクターやカップリング傾向に強く依存する所があるのだと思う。

その差異を「カップリング」という共同幻想・共通ワードに押し込めることによって、その「人間それぞれの差異」みたいなものを消し去る効果があるため、このカップリングと言う概念は長く使われ続けているのだろう、と思う。

左右固定、逆カプのみが苦手で、同カップリングは仲間のはず、という感覚も、この共同幻想に乗っかって、仮初の安心を得ている部分がある。
「同カップリング」であれば自分好みの同解釈の物を描いてくれるはず、と言うのはそもそも完全に幻想なのである。
「同カップリング、増えてくれ!!!」と叫んでいればきっと自分の好みの物が提供されるなんて都合の良い事はないはずなのだが、そういう夢を見る余地を与えてくれる。
私の好きなものは私しか描けないから自分で増やすしかねぇよ…ぐすん……。


本当は個人個人で違う部分があり、自分に向き合う必要性みたいなものは人それぞれに存在しているが、
読解や作品ではなく簡潔な表記のみで自分の好みを定義することができることで、自分を直視する必要がより薄まり、
「みんな同じだ」という感覚、差異を感じなくて済む安心感、
カップリング妄想が好きな仲間の存在の可視化などによって、所属感や連帯感などを得ることができる。



また、カップリングを楽しむオタクには女性の方が多い印象がある(正確には、男性オタクも普通にカップリングを楽しむが、カップリング妄想と言うよりは男女の恋愛や性愛があからさまにテーマの男性をターゲット層にした商品がたくさん存在しているので、自分がカップリングオタクだという事は自認・自覚せずに済むパターンが多い)

そして、女性にとっての「恋愛」とか「性愛」などはかなりタブー視されやすいテーマであり、抑圧が内面化されているパターンが多く、なんというか、「カップリング」という概念の曖昧さが「みんな同じ」にしてくれて目隠ししている点には、当人にとっては非常にセンシティブで傷つきやすい要素が含まれている場合が多い…。

またカップリングオタク、特にBLオタクは女性オタク内でもマジョリティで加害的なふるまいもしやすいため、「BLオタクという属性への所属感」や「所属できなかった・そこにいないかのように扱われる寂しさ」などの経験も生みやすい。


BLオタクは男性オタクに過度に加害を受け続けてきた実態がある。
嫌がらせを受けないために男性に擬態することや、ミソジニーを内面化してやり過ごそうとしている人も多い。
被害者がそのまま加害者になっている。

また、女性が恋愛や性愛を楽しむのはふしだらで良くないことだ、とか、
逆に現実の恋愛や性愛を楽しむ方向に努力しない女性が蔑視の目を向けられたりとか、
そういう目を向けられることが多くて、抑圧がある場合が多く、ややこしい。
(私も別にリアルで恋愛とか性愛を楽しむ必要性を全然感じんので、フィクションで安心安全に楽しみたい気持ちがちょっとある)

人並みに恋愛や性愛を楽しみたいけど自己主張が出来ない、責任を一切取りたくない、から、BLで受けに何の責任もない攻めが強引なタイプのカップリングを楽しみたい、という方向性に流れた人も一定数居るんだろう、と思っている(というか、これがおそらくは多数派)
現代ではリアルでの恋愛関係自体が相互に合意を確認し合いお互いを尊重するような形に変化しているせいなのか、フィクションの世界でも「BLっぽい」BL二次創作の数が減ってきたらしいの、めちゃくちゃ興味深い。

男女カップリングを楽しんでいる人たちは、BLカップリングだけが人気を博している状態が気に入らなくて、それに対抗する意識で「我々こそが”ノーマル”カップリング!」と名乗ったという説がある 本当だったとしても相当昔の話だろうけど…
その名称を使っている単に男女カップリングが好きな人たちにさして悪意がないのは分かっているが、現代では「BLやGLはアブノーマルだって言うのか???」という批判を浴びて言葉の言い換えが進んだり、進まなかったりしている

BL好きの女性オタクの夢女子への嫌悪・加害行為などは酷く、マジで問題がある
BL好きからBL好きオタクへのネットリンチなども止まない
でもその一方で男性オタクから女性オタクへの嫌がらせや加害は今も続いているし、インセルや表現の自由主義オタクVSツイッターフェミニスト(この層にも実は女性オタクがめちゃくちゃ多い)みたいに形を変えてきてもいる…


一口に「オタク」とか「カップリングが好きなオタク」と言っても立場の差がこれだけあり、趣味も人それぞれな上にそれぞれの立場によって心の傷や自分的主観で加害者だと思ってる属性も違うので、これらを「カップリング」という言葉がひとまとめにしていること、傷つきを避けたり共通言語としてやり取りを円滑にしている要素と、逆に差異を自覚することを避けることなど良くない効果の、功罪両方があるんだろう…。

なんかこの バベルの塔というかパンドラの箱と言うか
このブラックボックスを解体しようとしちゃったら、色々大変なことになるんだろうな、みたいな雰囲気を感じる
でもなんかもう最初から実は共通言語ではないブラックボックスなんだったら本人が各々自分の信念や感性に基づいて運用していくので問題ない気がするし、ブラックボックスではなくて共通言語だと思ってる人は共通言語として言語が通じる範囲の人と使えばいいし、総合的には「各人が自分の責任で好きにすればいいのでは?」という方向で良いんだろうなという気はする

(あ、私は左右固定傾向あるんですけど、
カップリングの左右は挿入方向方式なのでそれを守ってくれ!! って言ってる人の要求はかなり高くて、通常あまり満たせないタイプの要求なので、律義に守って得するタイプの人はごく一部なのでは…という気がしている…
でも多数派の共通認識ではある…どうして…?
「自分も挿入方向に拘りがある左右固定派です!! 同志よ!!!」って心から思える人以外はあまり…採用のメリットがないような気もする…
左右固定派が言ってる挿入方向形式のラベリングは作品ではなくて「人」「描き手」に適応されてて、それはめちゃくちゃに高いハードルであり、大概の人間はそんな強く揺らがない一貫性なんか持たないんだから、過大だし、そもそも無理な要求なのである
この要求が一般ルールになってるのは、弱さが権力になりすぎてる構図があるような気がして、そのうち「おかしくね?」ってなって見直される流れが来るかもしれない)



特にカップリングとは何かが良くわからないまま終わります
ご拝読ありがとうございました

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