クソ商法への批判の是非

7月、8月と労働量がガッツリと増え、忙しくなってしまい、見事にブログの更新が止まっていました…。分かりやすい。
ちょこちょこと労働量を調整して貰いながら、なんとかやっております。
まだまだ暑いですし、体調にはお互いに気を付けましょう皆さま~。



本日は、タイトル通り、
オタク界隈に多い、【クソ商法】への批判の是非について語りたくなり、ブログの編集ページを開きました。
例によって長くなります!!!


クソ商法とは?


オタク界隈に存在している【クソ商法】とは、例として挙げると、
  • ソシャゲのガチャ商法
  • ブラインド式ランダムグッズ商法
  • CDに投票券がついてくる! 商法(いわゆる、AKB商法)
等のことです。
他にも色々実例はあると思いますが…。

(※ここに合わせて問題商法としてよく話題に上がる、「投げ銭」≒「スーパーチャット」については、今回は一旦ここからは外して語ろうと思います。
 私自身がこの商法については考えがまとまっていません。また、"企業の"商法というよりは、個人対個人のお金のやり取りに近い印象を持っています…こちらについても色々と考えていきたいです)


これらの商法は、
  • 買い手の射幸心を煽るなどして、冷静な判断力を失わせ、お金を注ぎ込ませる
  • 本来はくじやギャンブルであるものを、そう明示せずに販売する
  • 本来は必要のないものや、本来必要な個数以上の商品を顧客に買わせようとする
などの問題点を持っています。


そして、何故かこのような商法は、アニメ・ゲーム・漫画、それに隣接したアイドル界隈などの、「オタク」分野においてのみ当たり前の商法として存在しています。


クソ商法への批判の是非


話は戻りますが、私が今回語りたいのは「クソ商法への批判の是非」についてです。

私は基本的に、この手のクソ商法についての批判は存在すべきである、という意見を持っています。

クソ商法なので、それはクソ商法である、という批判はされるべきである。単純ですね。

これらの批判や注意喚起には公益性があり、これらの批判が一切存在すべきではない、と考える人はおそらくほぼ居ないのでは? と思います。
(例えば、霊感商法やマルチ商法には気を付けよう、という注意喚起に公益性がある事は理解してもらいやすいと思います)


※勿論、「基本的に」ですので、例えば「誰もがクソ商法であると分かっているので、誰もお金を出さず、結果的に注意喚起の必要もない」ですとか、「誰しもが批判を行うようになり、その空気が行き過ぎてしまっている」などの場合は、あえて批判をする必要がない場合もあると思います。しかし、現状ではそうではありません。


ここまでの前提は、「何事にも、適度な批判はあった方があった方が良い(健全だ)」と考える方には、ものすごく当たり前の事だと思います。
批判というものは基本的には良くないものだ、と考える人にとっても、勿論100%全ての批判が良くないわけではない、必要性の高い批判も存在し得る、ということは、例を挙げて説明すれば分かっていただけるのでは、と思っています。

(ただ、「この商法はクソではない、理由はこう」という反論や批判もあり得るかとは思います)


そして、オタク界隈には、この「何事も、批判はよくない」という空気だけでなく、
「推しや好きなコンテンツ、そしてそれを消費している"自分を"批判されたくない」
そして「推しにお金を出した方が偉い」
「自分の生活や金銭面よりも、推しの方が大切」
(自分の生活や金銭面・人格面の問題や悩みに目を向けないために、オタク活動に対する浪費を手段として用いており、その上で浪費が良いことであると価値観を倒錯させて、その状態を肯定している)
…という空気が蔓延しており、それがこれらの商法がオタク関係でだけ通用している大きな理由になっている、と感じています。


この文章を書こうと思ったきっかけ


今回私がこの事を改めて考えて文章を書こう、と思ったのは、ツイッターで見かけた、とある有名なツイッタラーさんのツイートの影響でした。

私が見かけたツイートは、私なりに要約すると以下のような内容でした。
(ツイートしたご本人への批判や攻撃目的ではなく、オタクが陥りやすい心理の分かりやすい例としてお借りして、例示させていただきます)

  1. 「推しにまつわる消費の問題」について考える時、「企業」のあり方の問題が一番大きく、「消費者」の問題は優先順位としてはその次である。
  2. 「消費者」が善良であろうとすることを、消費を進めたい「企業」としては良しとしないであろう。また、その不健全な消費によって資金が賄われているエンタメを楽しみながら「よい消費者であれ」と唱える人間は、悪い消費者から見ると上澄みだけをすすっている人間である。
  3. 愚かなオタクを悪者にするな。愚かなオタクが善良なオタクになったら経済活動としては規模が縮小するのに、そんなに「正しいこと」を言うのは楽しいのか?

めちゃくちゃ見覚えのある、典型的な闇堕ちしたオタクの心の声だなあ…!!
(私自身も非常に報酬系が弱くクソ商法に入れ込んでしまいやすいタイプの人間なので、非常に嫌な意味合いではありますが、親しみを感じます)

つまりこの方は、「クソ商法にハマっている消費者を悪く言うな」という方向からクソ商法の批判の批判をしている、と私は受け取りました。

こういう「重みのある、クソ商法に貢いでいる当事者の声」を尊重するべき…なのかな…!? と良心の面から気圧されてしまいやすいのも、クソ商法への批判が増えず、オタク界隈からクソ商法が減っていかない理由かと思いますので、この考え方に対する個人的な考えをここに書き留めておきたいと思います。
クソ商法への批判への批判への批判ですね…。

  • 1.について
責任のあり処が企業>消費者なのは、全くもってその通りだと思います。
(私自身も「企業」の「商法」を批判したく思っています)
クソな仕組みを作っている企業の責任が、クソな仕組みに騙されて搾取される人間よりも軽いはずはありません。

ところで、元の文章における「問題」とは、どのような事を指すのでしょうか?
この事については、後でもう少し考えてみたいと思います。

  • 2.について
ここで、
「悪い消費者を倫理的に問題があると批判しているのは、お金を使わずにコンテンツを享受している人間であるはずである。
 それは企業の消費を進めたい思惑にも反しているし、悪い消費者にお金を出させながら自分だけをいい位置に置いて出来上がったコンテンツという上澄みを啜り、コンテンツのいい部分だけを享受しているのだ」という思い込みが語られています。

いや、実際にそのような人(コンテンツには潰れて欲しくないが、他人の課金には文句を言いたくて、結果として上澄みを啜っている批判者)も居るとは思うのですが…。

この文章には、そもそもクソ商法を批判しているのが/クソ商法を批判して良いのはそのコンテンツを楽しんでいる人だけのはず、という前提(=思い込み)があるように見受けられますが、勿論そんなことはありません。

そして、「他人の課金に文句を言いながら上澄みを啜っている」人間でなければ、この批判は批判としてすら成立せず、思う所は全くなく、「ふーん、この人はそういう風に考えてるんだなあ…なんだか大変そうだなあ…」で終わりです。


企業が大々的に行っている商法というのは、そのジャンルのオタクが迷惑をこうむればいいだけの話ではなく、社会というのは繋がっており、思った以上に周囲に影響を与えています。
カジノの建設の是非が語られる時、ギャンブル中毒の危険性は必ず懸案事項として語られますが、現状ではスマートフォンさえあれば10代の子供すらもギャンブルに手を出しのめり込むことができる状況で、(そしてそれによって金銭的に困った人は貧困に落ちて行き、福祉等の費用もどんどんかさんで行き、社会全体が貧しくなります)社会的に大きな問題があり、同じ社会に生きている以上、批判する権利があると思います。

(クソ商法がオタク界隈でだけ広く通用しているのは、オタクコンテンツの閉鎖性により、批判の声に晒されにくいせいもあると感じています)

そして、クソ商法を批判できるのはクソ商法にお金を落としていない人だけのはず、という前提がも元の文章にはあるように思えますが、
普通に「お金使ったのにリターンが全然ない、こんな商法なんかクソ!!」という批判もありえるように、クソ商法にお金を落とした側もガンガン批判してよいと思います。


また、「なんでこんな社会悪みたいな商法が成立しているんだ、とっとと潰れろ」という立場からの批判もあってよい、というか当然に存在しているはずです。
もちろん企業は「社会悪として攻撃されて商売あがったりになる、法規制される」と困るので、そうなる前に商法を緩和・正常化させていくだろう、と思います。
そして、異常な商法に頼り切っていたゲームタイトルなどはその変化の波に付いて行けずにコンテンツを終了させると思いますが(現状の、ガチャ商法が大々的に行われている今ですら、サービス終了するソシャゲは後を絶ちません)それが商売というものなのではないでしょうか…。
結果として、クソ商法にお金を使う人が減るならば、そちらの方が良いことなのではないか、と私は思います。コンテンツの存続を第一に考える人にとっては、相容れない考え方だとは思いますが…。

  • 3.について
では、このような批判は「正しいこと」を言うのが気持ちよく、楽しいから為されている、行き過ぎた正義のような批判なのでしょうか?
いいえ、おおむね善意の人が「クソ商法にお金を使わない方が良い、本人のためにならないから」「クソ商法には問題があり、改善されるべき」という善意や、公平・公正やモラル感覚から自分の意見を主張している、と感じます。
そして、もし正しいことを言うのが楽しいから為されている批判だったとして、実際にクソ商法がまかり通っており、改善される気配がない状況で行われるそれが、間違った批判でしょうか?

また、この一連のツイートは1.を見る限り、「問題があるのは企業であり、消費者を批判するのはおかしい」という意図で為されていると思いますが、批判する側も「問題があるのは企業の商法である」という認識なのではないでしょうか…?
そうでないならば、堂々と、「問題があるのは企業の商法であり、消費者ではなく企業をまず批判するべき」と主張すれば良いのではないでしょうか…?

その主張だけに留まらず、2.3.を通して「批判の内容への反論」ではなく「批判者の倫理的態度」を攻撃しているあたりに、「相当にルサンチマンをこじらせており、精神的に闇堕ちしているのではないか」という感想を抱きました。


「企業の方に問題がある」と前提に起きながらも、このツイートで主張されているのは、「悪い消費者を批判するな、その理由は批判している側の精神性に問題があるからで、企業の消費にも貢献しないからだ」という主張であり、クソ商法への擁護になってしまっています。

Q.問題があるのは、企業か、消費者か?

さて、このツイートで最初に語られていた「問題」とは何なのでしょうか。
搾取的なクソ商法を作り、そこから利益を得ている、と言う意味では、企業の側に責任が大きいのは言うまでもありません。
一方で、それによって消費者の責任が完全に相殺されて0になるわけではない、という立場の意見もあります。
「クソ商法にお金を出して、それを延命させている消費者も消費者である」という意見です。

DVをする恋人にパチンコ代をせびられてお金を渡してしまう人が居たとします。
道義的には、パチンコ代をせびってくる恋人の方がもちろん非があり、お金を渡してしまう人は被害者でしょう。
一方で、被害者本人の気持ちを優先して、「仕方がないよね、お金を出さなければ殴られるから」という意見だけを出し続けていれば、搾取構造が温存され続けるばかりです。
「お金を出す必要はないから、その恋人とは縁を切って逃げなさい」という主張がこの世に存在しなければ、自分からその発想に至れない、判断力が弱い人だけが搾取され続けることを容認してしまうことになります。

そのため、一般論として、「消費者として、クソ商法にお金を払わない方が良いのではないか」という意見も、私はあった方が良いと考えます。
結局のところ、財布からお金を出すかどうか決めるのは消費者本人です。

Q.クソ商法にお金を費やす消費者は「悪者にされている」のか?

個人的に気になるのはこの点です。
オタク界隈では「消費」「コンテンツにお金を出す事」は美化され、賞賛されます。
とても「お金を出す側を悪者扱いする」空気にはなっていませんし、その空気になっていればこれらのクソ商法は既に過去のものになっているはずです。

悪者扱いや批判されることを嫌うからこそ、まだそのような批判が主流でなく行き過ぎていない段階から、このような反応を見せているのでしょうから…。


ただ、ソーシャルゲームなどのコンテンツで、「お金を出す側を悪者にする」という層は存在します。
正確には、必ずしも「お金を出す側を悪者にしている」わけではなく、
「お金がない、生活があるのでゲームにそんなにお金を支払えないのでつらい」、
「ゲームなのに頑張っている人よりお金を出した側が優遇されるのはおかしい」、
「お金を出している人には絶対に勝てない、ずるい」、
「お金を出さなければゲーム内でやりたい事が実現できなくてストレス」という、
ソーシャルゲームに触れた人(のうち、おそらく多数の人)が抱く、ごく素朴な当然の反応です。
これらの意見に対して、課金を行っている人ほど、「お金を出す人の方が偉いのに、なぜそんなことを言うのか、みっともない」「無課金微課金を優遇するな」と目の敵にする傾向があります。

そういった対立構造も、ゲームを魅力的に見せてお金を使ってもらうために予めデザインされたものです。
たくさんいる「無課金・微課金」の人と、「お金を使えばその人たちよりも強くなれる、優越感を得られる」ことを、「課金をしたくなる理由」として企業は上手く使っています。
(そして、そのような対立構造を作っている企業に対して抱くべき批判が、目につきやすいユーザー同士に向けられてしまいます。そのため、届くべきところに批判が届かない構造になっています)

おそらく、元ツイートは、これらの「クソ商法にお金を出している自分たちを目の敵にしてくる無課金・微課金」という対立構造に気持ちが囚われたまま、「クソ商法への批判」を自分たちへの批判として見てしまっているのではないか…? と感じます。

クソ商法への批判と、
クソ商法にのめり込んでいる自分への批判(のように聞こえる意見)と、
クソ商法にのめり込んで加害的な発言をしてしまったことへの批判、は、
それぞれ区別をつけねばならないのですが、このような心理状態だと、そこを適切に分けて受け止めることも難しくなってくると感じます。

Q.このような闇堕ちした人間が改心できるまで、批判的意見を言い続けるべきなのか?

このような状態になった人間は、他人の意見ではそうそう行動を変えない、と思った方が良いです。

コンテンツに過度にお金を使ってしまう状態は依存症であり、医療や福祉で改善すべき問題です。
裏を返すと、一般人にはどうしようもない状態ですし、一般人に赤の他人の行動を改善するような義務はありません。

もちろん、信頼関係のある親しい特定個人(例えば我が子など)が同じような状態である、という時は、意見を交わしたり行動に制限をかけたり、医療に繋げたり、などと言った対処は必要であると思います。
しかし、赤の他人(しかも現状で過度な浪費が習慣づいてしまっている人)の意見や行動を変化させることを目的とする必要はありません。

基本的には、「コンテンツにお金を使う事こそ偉い!」という空気を壊していくこと、
それによって、まだ引き返せる人や、自分の頭で考えて判断が出来る人に考えて貰うことができれば、充分なのではないか? と思います。

「意見が対立している人」の意見を変えようとするのは、ものすごく重労働であり、ハードルや目標設定が高すぎ、たとえ成功しても一人の意見が変わるだけですが、
まだ意見が固まっていない人に自分の意見を参考意見の一つにしてもらうことは、かなり容易ですし、一対一で話さなくても良い分多数の人にも届きやすく、効率が良いのではないでしょうか。

目的は「クソ商法のクソさに気付いてもらい、被害者を減らすことや、クソ商法そのものを減らしていくこと」に置き、
クソ商法に入れ込んでいる特定の人を助けることは、本人自身や周りの人、医療や福祉に任せた方が良いのではないだろうか、と言うのが私の今の暫定的な見解です。



また私自身、この話題に限らず、目の前の特定の相手の反応に一喜一憂しやすい傾向があるので、「意見を対立させている特定個人を説得するのではなく、もっと広い範囲の人間に目を向けてみる」ということは、色々な分野でもっと気を付けて行きたいなあ、と思っています。



今回喋りたい事は以上です!!!!

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