疲れがヤバヤバのヤバのヤバ【日記】
ツイッターで見かけた印象的なツイートをメモがてら貼ります。
これは水です。 | quipped https://t.co/ksxUlVRLej
— 城井ふとん (@futon345) March 26, 2023
2010年全米1位の大学スピーチだそうだが、書いた人が自殺したことを考えて読むと内容が相まってつらいものがある。
リンク先は良いスピーチで、同じ発想を持っていない人にとっては世界の見方を広げてくれる可能性のある文章だと思うのですが、今回は一旦その話は置いておいて(置いておくんかい)、自分の話をします。自分のブログなので。
シンプルに、めちゃくちゃ疲れています。
原因は主に労働(休日は医療・福祉関係の用事)による、自分の少ないキャパを超えた多忙。
趣味や娯楽による充実した忙しさ…とかではなく、ただただ忙殺されています。
睡眠だけはかなりしっかり取れているのがせめてもの救い。
(スマートウォッチを買ってから、睡眠時間のチェックがしやすくなり、睡眠を取る意識が上がりました)
今現在、娯楽や息抜きなどの時間はほとんど取れておらず、休みも少なく、仕事や用事をバタバタとこなして空いた時間を睡眠に費やしてなんとか誤魔化している、という状態です。
ここ一週間くらい、私の中で明確に「今の自分、めちゃくちゃ疲れてるな」と感じる出来事があり、
ほんとどうしようかな…と、困っています。
疲れを感じる出来事とは、例えば。
風呂に入るのが億劫。食事を取るのが億劫。寝るのすらも億劫。このへんは誰にでもよくある話ですが。
体がバキバキなのを通り越して、起きた時に体が鉛のように重い。十二分に寝ているのに(9時間寝ても)眠すぎる。これもそれなりに聞く話。
あと一つ、明確にこれは疲れが出すぎていてやばいのでは…と思ったことがありまして。
まるで【スイッチが入って別人になったかのように急に心が狭く】なる現象が起こりました。
普段なら何も思わなかったり、むしろありがたい、嬉しい、と思うようなやり取りをしているのに、自分があまりにも余裕がなく、完全に心ここにあらず(後3分で〇〇しなくては間に合わない! とか、愛想笑いや普通の挨拶する余裕すらない!! と思っている)な状態なので、(今忙しいんだから放っておいてくれ〜!!)とか、(今大変なんだから、察してもっと優しくしてよ!!!)みたいな感情が浮かんでしまう。
自分の心の声が、悲鳴みたいな声が聞こえてくる。
これは、あまりにも続くようなら、私にとっては耐え難く、日常生活や人間関係に悪影響を及ぼしかねない状態だな…と、他人事のように考えてしまっています。
もはや人と関わること自体を避けようと思うかもしれません。
(幸いにしてその後この症状はマシになっており、余裕が出たら&休んだら治る類のものだと思われます)
私は基本的に自分の思ったことや考えたことをすぐにそのまま言うことが日頃から少なく、衝動性に乏しく、なるべく自分を律そうと習慣づけているため、このような状態に陥っても他人に急に害意を向けてすぐに八つ当たりするようなタイプではなかったことも幸いでした。
私の日常の語彙に他人の非を責めるような言葉はなく、そのために、とっさに出てくることもないです。
(極端すぎてそれもどうなんだろう、と、これはこれでかなり問題を感じるのですが…)
ただ、私とは違って衝動性が高い人の場合、自分が追い詰められていたらつい加害的な言葉が口に出たり、加害的な行動を取ってしまうのだろうな…と、生々しく想像がついてしまいます。
もちろん、もっともっと余裕がなくなってくれば私も思いがけず人に加害をしてしまったり、パニックになってしまって人前で泣いてしまったり、突飛な行動を取る可能性もありますし、何より自分がつらいので、休める時にしっかり休もうと思います。
でも本音を言うとゲームもしたいよわたしゃ…(だがしかし、休息を取るならしっかり寝る、そして無理しないのがお約束なのだから、ゲームやお絵描きなどの楽しくとも過集中してしまい負担のかかる行動は避けるのも大切なんでぃ)
また、私は以前は仕事上での勤務時間の交渉や相談などもあまり積極的にはできず遠慮してしまう、極端に引っ込み思案な性格だったのですが、
「このままの多忙さのままで働き続けるのは流石に無理だ、死んじゃうかも」ということが体感としてわかったため、(来月は人員が回復する見込みがあるせいもありますが)来月以降は仕事の日数を減らしてもらうようにシフト担当者に頼んだり、4月下旬に思い切って休養のための休みを多めに取ったり(と言ってもかなり控えめな量ですが…)と、少しずついい方向に変われて来ている気がします。
また、私の職場の同僚たちは、自分の権利をしっかり守ったり主張したりするタイプの人達が多く、それも私にとっていい影響があるなあと思っています。ありがたい…。
(職場の空気がもし仮に「周りに遠慮して黙っておいたり休みを取らないのが良識!」みたいな空気だったら、私は容易にそれに染まって追い詰められていたと思います)
***
話は変わるのですが、私は自分の事を、結構な「性質が悪」な人間だろう、と推測しています。
「性質が悪」というのは、生まれついて妬み嫉みが多いとか、衝動的でギャンブルにのめり込みやすかったりとか、人間が嫌いだとか、自己中心的とか、欲望が強いとか見栄っ張りとか、そういう性質や傾向が強い、という人の事を、便宜的に連想しやすいようにそう呼称しています。
逆に、生まれつき人間が好きとか、害意がなくて優しい人、思うままに行動すると「善」的な行動になりやすい人もいて、そういう人は「性質が善」に近いのでしょう。
ちなみに私が感性の赴くままに生きると、加害的な人間やモラハラ野郎にばかり好かれて加害されまくったり、物欲が爆発してお金に困ったり、睡眠不足になって体を壊したり(実際壊した)、ろくな生活はできません。
なお、善悪と表現すると、人格の良し悪しを評価しているかのように聞こえるかもしれませんが、実際には生まれついて持った生得的要因(遺伝などに近い)の話なので、これ自体が人間の性格の良し悪しの評価になるわけではありません。
(持ち合わせた要因ではなく、実際に表現されている行動や言葉で人柄は評価されるものだと思います)
性質が悪であっても、感性の赴くままに生きず、善や正義とは何かを学んで実行し、善性があって好ましいと思える人と関わればそのような人と親しくなることもできますし、物欲もセーブする方法を学んで行けますし、生活のコントロールも、努力すれば改善していくことができます。
私は、自分の本来の性質が社会的生活に向いていないなりに、自分の本来持っている性質をしっかりと自覚して、克服していく必要があるのだろう、と強く思っています。
ここで、最初の最初、リンクを張ったツイートの話に戻ります。
これは水です。 | quipped https://t.co/ksxUlVRLej
— 城井ふとん (@futon345) March 26, 2023
2010年全米1位の大学スピーチだそうだが、書いた人が自殺したことを考えて読むと内容が相まってつらいものがある。
私はこの文章を読んだ時、普段の私の頭の中のようだ、と思いました。
私は自分の感性を全然信じていないので(デフォルトが「悪」、浪費や妬み嫉みや自己破壊に結びつくように設定されていることを知っているため)、頭の中でこうやって世の中の解釈をこねくり回して、他人に加害的にならない行動選択や物の考え方をいつも考えてしまっているからです。
他人にイライラする必要性を特に感じないので、イライラする物の見方はあまりしません。
他人に、自分の醜い欲望や自己保全欲のために何か自分のために我慢してもらう必要性を感じないので、常に何かを譲りながら、それが当たり前で普通で善良だと思って生きています。
こういう「クリーンで、害意に乏しく、優しくて、自由な」考え方や生活をずっと続けているとどうなるのか。
答えはツイートに書かれています。
場合によっては死ぬからやめとけ!!!!!!! 以上!!!!!!!
このスピーチは、「どう物事を見るかは自分で選択できる」ということの大切さを説き、自分が自分中心の世界観で生きるデフォルト設定を欲望に満ちあふれているものとして、そこから抜け出すには多大な労力を必要とするようなものとして書いていますが、人間がデフォルトで自己中心で生きるようにできているのは、それが人間の生存に必要な機能だからだよ!!!!!!
なのでそれをなくして自分を完全にコントロールし、優しく余裕のある人間を目指すことはしない方がいいです。
それを目的にすると自己を守る機能が失われます。
もちろん、
この思考を普段一切やってこなかったから、常に自分中心でイライラしているから、だからこういうふうに考え方を変えて、ストレスを減らし余裕を身に付けたい…という人がこの考えを取り入れて、少しだけ真似してみるのは良いことだと思います。
世の中はだいたい程度問題で、程々であれば害はなく「良いこと」が、加減や程度を間違えて0%や100%を目指すと害が出てしまう、そのようにできています。
このスピーチのような生き方を、もし仮に100%実行すると、いずれは強いストレスを抱えることになってしまいます。
程々、程々で良いです。
自分で言うのもなんですが、私はこのスピーチのような考え方をかなりの強度でできている方なのではないかと自負しています。
では実際にこの生き方を強く強く自分に課していくと、どうなるかというと、
- 相手にも事情があるから、と自分の要望や意見を出せなくなる
- 他人優先で、自己を守ったり自分のための行動をできなくなっていく
- 自分の頭の中の世界で完結してしまうので、実際の他人がどうなのかを知ろうとしなくなる(他人に事情があって大変なんだな、みたいな妄想から生まれた優しさは、相手にそんな可哀想な事情などないとわかったら瓦解するうえ、騙されたような気持ちに変わる)
- 自分と違って、他人の事情を思いやらないでイライラしている他人が狭量だと思えてくる
- 軽率に自分や他人を傷つける別の他人が許せなくなる(許せないが、相手にも事情があるから…と思ってしまう)
- 自分に余裕がなくなって心が苦しくなっても、それを表に出せず、助けを求められなくなる
- 自分がしんどくても、他人がそれを想像して思いやってくれる状況を期待するが、そういうふうにはならない
- 他人に自分と同じような自制心を求める
- 他人が自己を優先したり自己を慈しんだりしている様子を見てイライラしてくる
- 人間って(もしくは、自分って)どこまでも自分の事しか考えてなくてなんて醜いんだ!!! なんでこんなに考えなしなんだ!!!! と絶望する
こういう事になっていきます。
物事に良い面しかないなんてことはなく、このような副作用がついてきます。
人間がデフォルトで自動的に自己中心的にものを考えることは、一見醜く愚かで自由がない考え方に思えますが、
実際には、人間が正常に自己を慈しみ守る気持ちもそこに含まれているので、その全てを否定してはいけなかったのだ…と、自分が追い詰められてから思っています。
また、状況の見方を変えることは、ストレス軽減手段の一つとしては効果的ですが、それが全てではない、と思います。
ストレスを減らすための行動をしたり、自分に加害してくる相手から自分を守ったり、逃げたり、休んだり、自分で自分のケアをして機嫌を取ったり健康状態や生活の質を良くする、そういうこともとても大切です。
物の見方をコントロールすることだけに長じる必要はなく、程々に、バランス良く自分を守れば良かったんだ…。
***
このブログ記事で総合して何が言いたかったかというと、物理的疲れがめっちゃやばいという話と、そこに、(本来ストレス軽減のために身につけた物の見方によって)精神的ストレス・疲れもマジヤバイかもしれん、というお話でした。
もしかして、私だけが常に他人のために心を砕き、優しくして、自分の優先度を下げて、
それなのに他人は誰しもが自分の事だけをいつも考えていて、他人から自分がしているのと同等の優しさを分け与えられることはないのではないか、という、
疲れによって、そういうとても偏った主観に閉じ込められてしまい、
それがどうしようもなくメンタルの疲労を加速させて居る気がします。
かといって、私自身が他人に優しくしてもらうにはどうしたら良いのかをよく知らんため、
適切な優しさというものを提供してもらいたいのに、他人に優しさを提供することしか私にはできない、という、何が出るかわからないのにとりあえずお金(優しさ)を突っ込むしかできないガチャガチャみたいな生き方をしています。
また、他人は普通に自分を最優先に物事を考えられているのだ、という当たり前の事実を、それがうまくできない状態であると、たまらなく妬ましく苦しく感じる状態なのだと思います。
私自身は、こうやって他人のごく当たり前の心のありようを見てすらも妬み苦しむという、妬みの感情が強いような「性質が悪」の人間ですが、
普段からそれを行動に反映しないように必死で頑張っているという自負があり、
しかし、生まれつきの性質など証明ができない以上、私の頑張りは他人から見て評価されることは決してない(良くても、生まれつき優しい人間だと思われたり、性質が善の優しい人間だと思われて終わる)ということも、ままならなさを感じる点であります。
これもまた、自分が自分を評価できず、他者からの評価に精神安定が左右されるゆえに気にしてしまうことで、本来は他人に加害せず善性の性格に生きることができているならば、それだけで良いことのはずなのです。
私は、今は本当に疲れているから、他人に純粋な優しさを与えてもらいたい、と思っているのだと思います。
しかし、他者優先の考え方をついついしてしまう私にとっての「純粋な優しさ」は、基準値が高すぎる気がするのです。(その内容を語ると、性質が悪〜〜〜〜!! ってなってしまって落ち込むし、周りから見てドン引きされる内容が出てきそうな気がしてきたので、語るのは一旦やめておきます)
結論、
- 貰いたい優しさ(ケア)の設定内容・想定内容が適切ではない
- 一般的他人像の想定もおそらく適切ではない、それを正していく能力も弱い
- (それらの設定が適切ではないのもあって、)ケアや優しさを与えてもらうための方法や手法、それができる人間関係資本を持っていない(あるいは人を頼れていない)
- 他人を優先しすぎ、自己を犠牲にし過ぎ
- それ故に他人の自己優先を許せなくなっており(疲れ)、強制的に自己優先の思考プログラムが起動する状態になっているが(追い込まれ)、それすらも日頃の積み重ねのせいで実行できない状態
このような課題が私にはあり、
- とりあえず、休む
- 休んだ後、その他の日常のことなど取り組んで、それでもなお余裕がある時に、上記の自分の人格的課題に取り組む
- あと、自分を責めすぎたり追い詰めすぎたりしない
というのが、とりあえず取るべき当面の行動かな、という結論になりました。
寝ます!!!
おやすみなさい!!!!
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