投稿

最近の日記

最近もTwitterを見る時間が減ったまま生活をしています。 何かを考えること自体が減ったわけではない…と思うのですが、過度に考えを突き詰めることは減ったかもしれません。Twitterと言う外部刺激に触れることが減ったため、多分考えることの内容としてもっと自分に身近な事を考えて居られていると思います。 こうやって考え事を文章にすることは相変わらず好きです。 このブログ記事も考えたことのまとめですし、実際には私の感情の吐き出しかもしれません。 人間が「考えを文章にする」動機には、少なくとも二つほど別々の理由があるのではないか、と最近思っていまして。 文章を書く過程で、自分の考えをまとめていったり、自分で自分を理解したり、感情を吐き出したりする 一度まとめた考えを「他の人に伝える」という目的で形作って、表現する この二つです。 大体の「文章が上手い人」は既に"自分"についての理解度が高く、人前で発表する文章では後者を意図してやっている…と私は思っているのですが、実際にそれが正解かどうかは分かりません。 そして自分も含めた大体の人はこの二つの動機を上手く切り分けたり使い分けたり…といったことはできない、それ以前に意識もあまりしない、事が多いのではないでしょうか。 特に気持ちが揺さぶられたり傷ついてしまった時は、この二つの動機の垣根がさらに曖昧になり、「自分の内面について考えた感傷的で衝動的な文章を」「他人に伝えるフォーマットで」万人に届けてしまうような、そういったことが起こりやすく、 そして自分もおそらくそういった類の文章を書くタイプの人間である…と気づき、少し反省しています。 自分の内面を見つめて言語にする作業と、人に伝える作業は、可能であれば別々にした方が良いのだろう、と思います。 しっかりと目的意識を持った方が、その目的を達成しやすくなりますし、他の人に無用な傷つきを発生したりトラブルになる可能性を減らせますので…。 *** また別の話題になるのですが、最近 「政治と宗教の話を禁止」 という話題について考えています。(これは考え事の整理の方で、まだ自分の意見を整理してわかりやすく発表できるという感覚には至れていません) 具体的に言うと、 会話や意見発表の場を提供している側(これは巨大企業に限らず個人の場合もある)が、「政治や宗教の話題の場合、高確

Twitterからのお引越し

今までツイッターを長年のめりこむようにして愛用していた所謂「ツイ廃」の私なのですが、様々な事情が重なり、最近はツイッターをほとんど触らない日が増えてきました。 (実際には服薬や体調の管理などを行うためだけの記録アカウントを持っており、毎日ツイッターを利用しては居るのですが…) 一番の大きな理由は、7月にツイッターの動作が不安定になり、ツイートの取得に大幅な制限がかかったことです。 私はどうしても脳内を文章にして整理したい気持ちが強いため、ツイートをすることができない、という状態にショックを受け、同じような機能のある別のプラットフォームに移りたい気持ちが強くなってしまいました。 その後ツイッターが名称を「X」に変更しツイートなどの固有名称を変更したりしていますが、それらへの抗議の気持ちでツイッターを辞めているわけではありません…。 また、私自身がツイッターでは考え事や政治・差別問題・ツイッター上での人間関係などに真剣に取り組みたい気持ちが強すぎて、どうしてもその程度が過度になってしまっている部分もあったため、一旦距離を置いてお休みすることも必要・良い経験かなと思い、今は無理にツイッターを触ろうとはせず、気分に任せています。 何事も過度であることに良いことはない、と思っています。 差別問題に興味を持ち、差別を許さない人間を目指すという一見立派な行いであっても、過度であれば問題の方が大きく出てきます。 差別とは心の持ちようというよりは社会構造であり、言語や社会システムや常識に差別が組み込まれており、社会に生きて居る限り「差別をしない人間」になる事は出来ません。 その現実を忘れ、差別をしない人間である自分の方が他の差別をする人間よりも立派であると驕った時、人は簡単に客観性や社会性を失ってしまいます。 大事なのは、自分の中に判断の基準になる軸を2つ以上持ち、その間でバランスを保つことだなと思います。 お恥ずかしいことにツイッターを断ててもSNS断ちをすることは出来ず、最近は引っ越し先を探す気分でFediverseをふわふわと漂っています。 Fediverseとは、MastdonやMisskeyなど、「 ActivityPub 」という仕組みで投稿(ツイートのようなもの)を共有し、お互いにフォローし合える仕組みのSNS群です。 Mastdonのサーバー(個人が個人経営のサーバー

最近思うことの備忘録

※文章ではなく箇条書き形式の備忘録です  ・ネットよりもご近所づきあいが大切だという事 実感  近所に居る+身元が分かる+共通の知り合い+長年の積み重ね  いざという時に助けてくれる人は身の回りの人である ・誹謗中傷に慣れる人と、傷ついて人格が変わってしまう人の差  自分の中に優先順位がしっかりあり、傷つきを反芻する暇がない(意図して傷つき以外の行動を取っている人)人が傷つきに慣れやすいのでは ・自分のよりどころが複数ある人は一部を批判されてもダメージが少ないという話 ・ダブルスタンダードの話  ダブルスタンダードが苦手だが、ダブルスタンダードを人の基本精神としてある程度許容したいという気持ち ・他人を理解する時に、理想論や自分のステータスから相手の人格を想定しても、実際とはかけ離れた想像にしかならない場合が多い話 ・理論で考えようとするのではなく、人に関わる回数を増やし、実地で「人はこのようなものである」を腹落ちさせないと、人間の弱さを自然と許容できる状態には到達できないのではないか ・自分が人に高い理想を求めるならば、他人からも高い理想を求められるだけでなく、「高い理想を叶えられないことから攻撃されることを避けるために」という理由で望みが叶わなくなる(例えば自分が、完璧な助けを提供できないので…という理由で助けられない場合が増える)ことも、繋がっている一連の流れなのではないか  その一連の流れって認識しているものなのか?  それを把握していないなら、人の事は助けないし責めるが自分は助けられたいというのはただの我欲であって、助けない人の倫理的問題点として他人を責めることは難しいのではないか ・他人に興味がないが、他人には自分に興味を持って配慮して欲しいという要求や願望はダブルスタンダードだが、人はそれをダブルスタンダードとして認識しているのか ・他人に興味を持たれなくても生きていける自己肯定感がMAXの存在がいるならば私はその人の事がすごく好きだが、そういう人が「他人に興味がない」を極めていると、加害性を修正する機会に恵まれず多分大変と言う空想上の話 ・人は別に能力が上がったり人格として素晴らしかったりすればするほど単純に人から好かれるという訳でもない(好かれる率は上がると思うけど)  嫌われなくなるわけではない ・自己否定をして、前に向かって進んでいこうという決

カップリングって…なんなんだ…?

最近、「カップリングって何なのかな…」みたいなことを考える機会があり、 結論は特に出なかったのだが、それについて考えたことをメモとして記していく。 一般論として、カップリングという概念は、キャラクター二人を 恋愛関係 として表すための同人用語、らしい。 また一般的にはキャラクターの並び順は「攻め」「受け」という概念で固定さており、攻め×受け、という表記がされる。 「攻め」と「受け」は挿入の方向性(攻めが挿入する側、受けがされる側)で決まるという解釈が一般的に採用されがちだが、感情の向きでのカップリング表記が採用されることもある(女性キャラの側が恋愛感情が強い男女カプにおける、女性キャラ×男性キャラ、など) このキャラクターの組み合わせには萌えるが、左右は不定(リバと呼ばれるパターンもある)という場合もある。 私の場合の使用法について自分で思い返して、メモをする。 私の場合、 二次創作作品を描くとき、 原作沿い・原作の関係性の中でありえる話・恋愛感情などが面白さの主題や前提になっていない話を描くときは、カップリング萌えしている二人であってもカプ表記をつけない。 自分の願望としてカップリング要素を自ら入れている自覚がある、原作の関係性から変化があった後の話、恋愛要素を楽しんで欲しい、と思った作品の時は、カップリング表記をつける。 ここまでは、作品に付けるラベル、需要と供給のマッチング、のような話だ。 そして、ややこしい事なのだが、原作作品への感想としては、 「ここに巨大感情がありましたよね」 という感想の表明として、カップリング表記を使う。 (それは必ずしも「この二人付き合ってるよね」とか「セックスしてるよね」みたいな意味ではない。巨大感情である) これが「恋愛感情」に限らない点には自分の趣味が関係しており、 私は性格がとても悪い邪悪なラスボスキャラが好きなのである。 到底人間を大事にしたり恋愛関係になってそれを楽しんだりはしそうにないキャラが好きなのである。 だが、 そういうキャラクターと思想が全然相いれない敵対的間柄の光属性主人公のカップリング、良くない!?  と思ってしまうのが私なのだ…。 この場合、カップリング表記をしたとしても、まず「恋愛関係」にはならない。 だが、自分が「原作の枠を超えて、この二人がどうにかなってる様を見て見たい!!! お互いの思想の違いをぶ

ほしいものリスト【多分買う編】

疲れがヤバヤバのヤバなので、 疲れがヤバヤバのヤバな感じの日記 が増えそうな気配があり、それを打ち消すために楽しい展望のようなブログ記事も、軽く書いていきたいと思います。 30分くらいで一本書ければ良いな…! 今回のテーマは【ほしいもの】についてです。 軽い内容なので、「欲しい物…休息…かな…」みたいなめんどくさい長文考察に繋がりそうな内容は避けて、Amazonなどで通販したいと思っているものを書いて行きます!! 1.パソコン用モニター 先日、パソコンが壊れた話をしたのですが、 新しいパソコンを、ノートパソコンではなくデスクトップのやつを選んで買おうと思います!!!! 本当は性能が良い高いパソコンが買いたかったのですが、身の丈に合わないので、無難に安さを基準に買い替えるつもりです。 目をつけている(もう買う段取りを付けている)のが中古のデスクトップパソコンなので、性能は程々ですが値段がとにかく安く抑えられそう! いいね!(ノートパソコンの方が性能が控えめな割に基本的に高くなりがち) ちなみにパソコンを探してる時に複数人に中古パソコンを勧められたような気がします。用途によるとは思うのですが、一般人が普通にパソコンを使う分には中古で必要十分ということでしょうか。スマホとかタブレットもあるしな…。 で、モニターにはとりあえずテレビを使えそうなのですが、 テレビよりは専用のモニターの方が良いのかな? と思い、安いものを探しております。 モニターって、ゲーミングモニターの方が良いのか…? モニターの違いとはどこにあるのだ…??? わからん…というのが一旦の私の悩みです。 でも、高いモニターを買ってもどうせ本体性能高いやつではないし、FPSなどのモニターの性能を要求されるゲームはやらないので、普通に一万円くらいの安いやつでいい気もしております。 テレビとモニターが両方あると、絵を描く時にデュアルディスプレイにできて非常に良さそうなので、そういう効果も超期待しています。(部屋のレイアウト変えたり、机買い替えたりとかしないと難しそうだけど〜!) 2.モニターを置く台 モニターの下に微妙な隙間があり、キーボードを下に入れておけるあれ!!! あれがほしいです!!!!! キーボード、お絵かき用の板タブレット、ノートや手帳、文房具など、とにかく机の上がゴチャついてしまう人間なので、せめてそ

疲れがヤバヤバのヤバのヤバ【日記】

ツイッターで見かけた印象的なツイートをメモがてら貼ります。   これは水です。 | quipped https://t.co/ksxUlVRLej 2010年全米1位の大学スピーチだそうだが、書いた人が自殺したことを考えて読むと内容が相まってつらいものがある。 — 城井ふとん (@futon345) March 26, 2023 リンク先は良いスピーチで、同じ発想を持っていない人にとっては世界の見方を広げてくれる可能性のある文章だと思うのですが、今回は一旦その話は置いておいて(置いておくんかい)、自分の話をします。自分のブログなので。 シンプルに、めちゃくちゃ疲れています。 原因は主に労働(休日は医療・福祉関係の用事)による、自分の少ないキャパを超えた多忙。 趣味や娯楽による充実した忙しさ…とかではなく、ただただ忙殺されています。 睡眠だけはかなりしっかり取れているのがせめてもの救い。 (スマートウォッチを買ってから、睡眠時間のチェックがしやすくなり、睡眠を取る意識が上がりました) 今現在、娯楽や息抜きなどの時間はほとんど取れておらず、休みも少なく、仕事や用事をバタバタとこなして空いた時間を睡眠に費やしてなんとか誤魔化している、という状態です。 ここ一週間くらい、私の中で明確に「今の自分、めちゃくちゃ疲れてるな」と感じる出来事があり、 ほんとどうしようかな…と、困っています。 疲れを感じる出来事とは、例えば。 風呂に入るのが億劫。食事を取るのが億劫。寝るのすらも億劫。このへんは誰にでもよくある話ですが。 体がバキバキなのを通り越して、起きた時に体が鉛のように重い。十二分に寝ているのに(9時間寝ても)眠すぎる。これもそれなりに聞く話。 あと一つ、明確にこれは疲れが出すぎていてやばいのでは…と思ったことがありまして。 まるで 【スイッチが入って別人になったかのように急に心が狭く】 なる現象が起こりました。 普段なら何も思わなかったり、むしろありがたい、嬉しい、と思うようなやり取りをしているのに、自分があまりにも余裕がなく、完全に心ここにあらず(後3分で〇〇しなくては間に合わない! とか、愛想笑いや普通の挨拶する余裕すらない!! と思っている)な状態なので、 (今忙しいんだから放っておいてくれ〜!!) とか、 (今大変なんだから、察してもっと優しくしてよ!!!) みたいな

落ち込みを解体する

とても落ち込んでいる。 私の不注意で、ノートパソコンを壊してしまった。その事自体には落ち込んでいない。 いつもパソコンの調子が悪くなってきてからバックアップを取る悠長な人間だったため、バックアップは残っていない。その事にも落ち込んでいない。 ノートパソコンを修理屋に持ち込み、もう一度使えるようにするのは無理だと言われた。そのことにも落ち込んでいない。 データの救出(勿論、確実ではなく、データが一部消える可能性は高い)には、相場では3〜5万程度の予算が必要だと予め知らされた。 私は、自分で言うのも何だが、貧乏である。 貧乏ではあるが、3〜5万は出せなくはない額だ。 だが私は新しいパソコンを買うことにすでに胸を踊らせていた。 ノートパソコンではなく、ノートパソコンよりも相対的に安価で性能の良いデスクトップのパソコンを買うのがここ数年、ずっと夢だった。 私はイラストレーションを趣味にしており、性能の良いパソコンを買って、隣接する分野のLive2Dや動画作成などの分野にも手を出すことで、能力を伸ばして、将来的には何かしら小遣い稼ぎが出来ないだろうか…という、淡すぎる希望を抱いているのだ。(そうでなくても趣味としてやってみたい) というわけで、自分の中で、この程度の額であれば後悔のないように出すだろうが、これ以上の額であれば次のパソコンを買う資金に充てたい…という揺れる気持ちがあり、悩みながらも実際の金額提示を待っている。 だが、パソコンを壊したときの反応が「あ〜あ…まあいいかタブレットもあるし…スマホとタブレットがあればしばらくパソコンいらんし…」だった人間が、貧乏なのに、バックアップを取らない程度のデータ(絵などはほとんど自分でツイッターなどに載せているし…)を救出することにお金をかけることにどの程度の意味があるのだろうか…と疑問に思ってしまっている、のだ。 話は変わるが、私は今の自分の労働状況を「一時的に苦しい」と感じている。 とても好きな仕事だが、単純に「今現在、人が足りていない」ゆえの忙しさが深刻だ。 これが一時的であると分かっている(4月になれば人員不足が解消される)ゆえに耐えられるが、恒常的にこの状態が続くのであれば職場に見切りをつける必要も出てくるだろう。 そう思った時、今以上に好きな職場環境は望めないし、そもそも私は再就職出来るかも怪しい…などと考えると、「