思考の反芻癖について、吐き出しと言語化

最近思い悩みがちになってしまい、今回は自分のブログに悩んでいる内容を書いてみたいと思いました。

と言いつつ、実際には具体的に何か解決すべき物事の判断に「悩んでいる」わけではなく、
今の自分のことを、「思考の反芻」が酷くなってしまった状態だと自己分析しています。


元気が出ない(軽度の抑鬱状態?)
→何か行動してそれを改善したいと思う
→元気がない上、思考の癖が不味いので行動に繋がらない
→他者に助けや影響を貰って行動力を貰いたいと考えるが、人にSOSを送ることに抵抗感がある
→そもそも自分で行動ができないのが不味いのだ、と自分を納得させようとする
→以下エンドレス


このような経過を辿っています。
このループの中の思考について、「行動する」ではなくただひたすらに「考える」を行ってしまっている(=思考の反芻)ため、悩み事が無いと言えばないのにしんどい、と思ってしまう状態なのです。

ツイッターに吐き出したり、このブログを書くことも「思考の反芻」の一環ではあると思いますが、形になって残る文章に一度してしまうことで、思考にある程度の歯止めをかけることを期待しています。


先に今考えている解決策から

解決策の案から喋ります。

・考えたり、考えすぎることにある程度制限を設ける
・行動する
・「自分が楽しめること」を行う

悩みがちになる環境的原因の分析

反芻癖が強くなったことには原因が思い浮かび、現在仕事が諸事情で休業中のことが理由として大きいのだろう、と思っています。
休みが取れれば元気爽快!!! というのを想像していたのですが、どうも私は適度に働けた方が自分のメンタルを保ちやすいタイプのようです。

また、私は元々季節によって鬱状態がひどくなる傾向があり、冬場は元気がありません。
(寒さ・日照不足、低気圧なども苦手)


そして、私は元々新しいことに挑戦するのが苦手なのですが、「ご時世なので家に居なければ」「休みで来月はお金が無くなるのだろうから節約しなければ」「夜更かししないように生活を整えねば」などの縛りを強く自分に課してしまい、新しいことに上手く挑戦することができていません。
自分に嫌々ながら厳しくしつつも、充実した休みを過ごしたいと思って自分に課した高めの期待を全く実現していないことにイラついてしまうのだと思います。


おそらく、春になると私は自動的に元気いっぱいになり活動的になると思われます。
そのころには仕事も再開している予定ですし。
楽観主義が過ぎるかもしれませんが、環境及び脳内物質の変化は偉大なのです。(割と毎年同じパターンの心理状態の変化をしがちで、びっくりします…)


行動力が無いという悩み

私は元々行動力がなく、自分の為に何かをやりたいという動機から行動するのが苦手なため、
締め切り効果を生かしたり、人の存在を行動の原動力にさせてもらうことで、行動力を補填することが多々あります。

半面、自分がやったことが誰かのためにならない、誰も喜んでくれないだろう…と思うと、途端にやる気がなくなってしまいます。
例えば同人誌は自分の為に作る物と言われますが、「作ったはいいが誰も欲しいと思ってくれない、読んでも面白いと思わない」という未来を想像するだけで手が止まってしまい、やる気を出すことができません。
自分が読みたい!! という理由だけでは、数十時間に及ぶ無賃労働を行うことが不可能です。(ただ、人類としてはこの感性の方がスタンダードだと思っています間違いなく)

そのため、他者に「こういうことをしてほしい」「あなたの○○という行動が楽しみ」という意見を出して貰って心理的安心感を得たい、もしくは「あなたの行動は社会的通念に照らし合わせて望ましいことである」という承認を貰いたい、と考えてしまいがちです。

自分の行動に責任が持てない、という感覚があるのかもしれません。
過度に他者依存的なのです。

この問題は、私が人にSOSを出すことで解決することができるのだろうか?
自分で行動することでしか、解決はしないのではないだろうか?
と言うのが、ループの一部分を構成する悩みです。

もちろん、この性格は「ボランティアに参加する」「仕事を頑張る」などのモチベーションに上手く転用できるなら、他者依存過ぎず効果的に生かせる可能性もある、と思います。

人にSOSが送れない

仮に、「人にSOSを送った方が良い」という結論が出たとしても、
私は自分の「他人に助けて貰いたい」「メンタルケアをしてほしい」「良好な友達関係を築きたい」という願望を恥ずかしいと思って嫌悪しているため、人に上手く自分の要望を伝えられない、という問題に直面しています。

私は母親から家庭内の愚痴を聞かされる子供時代を過ごし、
「自分より立場の弱い人に愚痴を聞かせてくる行為は良くない」
と感じており、
「自分にも母と似た性格傾向があるが、二の轍を踏まないようにしたい」
と自分を戒めています。

しかし、私の生育過程で身に付いた性格は「人の機嫌を取ってしまう」性格です。
「私は絶対に人にケアを要求しないようにしたい、それは罪なので」という姿勢でいると、対外的には「ケアを一方的に提供するが、貰えるケア量が足りていなくても構わない」という姿勢になってしまい、
結果的に対等な友人関係よりも、対等ではない、搾取的な人間関係を呼び寄せてしまいます。

そして私自身は、ケアの必要量が別に低いわけではなく、自分もメンタルケアを必要としているので、自分が他者に提供するメンタルケアと同量程度には返して貰える間柄が良い(=フェアな友人関係を持ちたい)という希望があります。
しかし、過度に自分の欲望を嫌悪して押し込めており、また他人に提供するメンタルケア量もガバガバなので、「フェア」「適度」という感覚が全く分からなくなっています。

自分が100与えていて貰える量が0でも、「メンタルケアを返して欲しい」と言えば「我儘」なのではないか?
逆に、自分が今メンタルケアを100搾取されているのだ、あるいは自分がフェアなケアを求めたら拒絶されるのだ、と正確に認識できてしまうと、怒りを抑えきれなくなってしまうのでは? という恐怖感があります。
その向こう側に、相手に200、300のメンタルケアを求めてしまうのでは…という、自分への不信があります。

過去に搾取的人間関係で嫌な思いをしたことが多いので、不機嫌で攻撃的な人間に対して恐怖感や緊張感があり、安心感を感じることができません。(が、私のような「人の機嫌を取ってしまう」人間は、立場の強い人を「不機嫌で人をコントロールしよう」という幼稚な態度に余計に走らせます)

「愚痴聴きには対価が発生すべきなので」という信念を持ってお金を払ってカウンセリングを利用しても、カウンセラーさんに対して「傾聴して欲しい」「話を聞きたいという姿勢を示してくれると安心する」という事すらも言えず、むず痒い気持ちになっています。
そして愚痴を聞いてくれる人を私が尊重したところで、「私は」尊重されない、という事実は揺らがないような、間違った主観があります。


更に問題がある

自分が「人にケアして欲しい」という欲を強く抑圧している状態では、「メンタルケアをしてほしい!!」という願望を持っている人を、もうその段階でフェアではなく、自分の我慢している事を公言している人だと認識するのだから、好意的に見るのも難しくなってきます。
間違いなく、心が狭くなります。

私が「私にメンタルケア労働をしてほしいなら(ケアの返礼はいらんから)金銭で対価を払ってくれ」と言い切れる性格なら良かったなあ、そうすれば心が狭くならなかったんじゃないだろうか、と思います。(ちなみにお金は本当に欲しいです。愚痴聴き労働するので雇ってください)


「お互いに唯一無二の友人関係に憧れるが、相手は沢山友達がいるうちの一人なのだ」という話題に関して、「他人を思うままに依存させたいだけなのでは」という辛辣な考察をした事があります。

が、私が「対等な友人が欲しい」「人にメンタルケアをしてほしい」という自分の願望を忌み嫌っているという文脈で自己分析すると、人にもその嫌悪をぶつけているな? と思います。
自分の願望や期待する友人関係像がお互いに近い友人が欲しいのだ、という願望は、あって然るべきだし、束縛などの度合いがきついと失敗しやすいというだけで、ベースとしてはおかしい感性ではないのかも、と思います。(そういう友人関係でなければ嫌だ! というのは、やはり厳しい物があるのだろうけれど)


結論の再放送

こういう思考回路の無限ループに自分を閉じ込め、思考を反芻する事は、
精神的な自傷行為だと考えています。

事実として「嫌なことがあった」ということよりも、その嫌なことを思い出し、悪い方に解釈し、何回も何回も思い出すことの方が圧倒的に自分の心を傷つけるからです。

考えることで解決策が浮かぶこともありますが、何事も過度であれば悪い方向に作用します。

【解決策】

・考えたり、考えすぎることにある程度制限を設ける
・行動する
・「自分が楽しめること」を行う

自分の行動に意味や「人の役に立つ」を求めすぎず、高いハードルも課さず、思いつきで行動する程度でもいいのかもしれません。


これは前向きすぎる解釈ですが、自分が非常に「物を考えない」人間であった状態から、たった二年ほどで今は「物を考えすぎて困る」弊害が出ているのだな、と思うと何やら感慨深くなります。
考えすぎない練習も積んでいきたいところです。

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