ゲームプレイ日記「NEEDY GIRL OVERDOSE」

 今、(特に動画配信者さんの間で)話題のゲーム作品、「NEEDY GIRL OVERDOSE」を購入して遊びました。

隠し実績も偶然早い段階で入手できたため、全ルート・実績を回収してプレイ時間は17時間半(放置時間含む)程度でした。


精神的に病んでいて、承認欲求が非常に強い(所謂メンヘラ)ヒロインの「雨(あめ)ちゃん」の恋人兼プロデューサー「ピ」となり、人気配信者になれるよう導いてあげる育成シミュレーションゲームです。
レトロなPCゲーライクなドット表現や、実際に「昔懐かしい」ネットミームや話題の数々、凝った演出などが楽しかったです。

ただ、その表面的かわいらしさやとっつきやすさに反して、ゲームの内容は「病んで」おり、どす黒く爪痕を残してくる、ギャップのある作品です。

ゲームプレイ前に、メンタルの弱っている人や現実とフィクションの区別がつかない人向けの注意書き(ゲームの内容を真似しない、休むことを優先するなど)が入ります。

感想

一周が短く、試行錯誤しやすく、クリアしても別の分岐が気になる引き込まれるシステムのゲームでした。

ただ、このゲームはヒロインが健康で平穏かつ幸せに過ごすこと目的とはしてはいません。
精神疾患を抱える人間を題材として消費しながらも、当事者に寄り添う姿勢はないゲーム、という印象です。

また、配信者やそれを消費するオタクを風刺する姿勢は感じるものの、その皮肉めいた表現がかえってステレオタイプの再生産になっている感も否めません。

積極的に人に勧めたい、価値のあるメッセージ性のある作品だとは私は思いません
(好き嫌いが非常に分かれそうなゲームなので、勧めなくても興味を持たれる方は自然に興味を持つと思いますし、苦手だと思う方はプレイしない類のゲームだと思いますが)

ただ、発想やゲームシステム的な面白さは十二分に感じるゲームなので、このゲームやキャラクターがゲームシステムありきの製作であったというインタビュー記事を見て納得しています。
(ゲームにおいてゲームシステムの整合性や面白さを優先することは、しばしば倫理的問題点やシナリオの矛盾を引き起こす原因になる、というのが個人的持論です…)

フィクションへの向き合い方への悩み

このような感想を抱くのは、それこそ「現実とフィクションとの区別がつかない」意見という見方もあるのだろうな、と考えています。

また、自分自身でも、「良い作品とは、倫理的に・メッセージ性的に優れた作品であるべきだ」という思い込みが強すぎるせいで、自分が純粋に物を楽しむ心が阻害されているのでは、と悩む部分があります。
(しかし実際には、ゲームに没頭して「楽しんだ」上で咀嚼してこの感想を抱いているのだから、心配しなくても十二分に物事を楽しめているのかもしれません)


個人的願望

ヒロインの雨ちゃんは躁鬱(双極性障害)を自称しています。

躁鬱とはどういう病気なのか? 本来どういう適切な治療が必要なのか? という事がゲーム内もしくは公式アカウントなどで語られていれば…、と個人的には思います。
(双極性障害は一般的鬱と見分けがつきづらい病気ですが、一般の鬱より薬物療法が効きやすく、逆に一般の鬱の治療をすると悪化することが多いようです)

ただ、医療の専門家でない人間が医療についてゲームなどを通じて啓発する、ということにもまた別に問題がある可能性もありますが…。

余談

このゲームは安価かつ短時間でプレイでき配信しやすい上、配信者の配信スタンスや性格・倫理観・個性などがダイレクトに出やすいゲームであるため、心理テスト的なゲームとして今後もYouTubeの実況動画などでの定番作品になるのでは、と思います。

好きな配信者の黛灰さんがこのゲームをプレイする生放送を行っておられましたが、ヒロインの身を慮った超健康プレイを心がけていて非常に笑顔になりました。
そういう真面目な所が好きなんだよなあ…。


現実であれば、病んでいる時こそ健康を慮った生活をすべきなんですよね。
私もゲームなどには集中しすぎてしまう性質なので、あまり無理をしないように心がけて過ごしたいな、と改めて思いました。

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