ロシアとウクライナの開戦がつらくて悲しいので文章を書く

ロシアとウクライナの戦争が始まってしまい、とても悲しい。
(何年も前から実質的には戦争状態にあった、という解釈もあるようだけど、私は今回の事態について詳しいわけではないので、そこについてはご容赦頂きたいです)

なるべく情勢を注視していたい気持ちもあるけれど、
今日のご飯の事とかを考えるなどしてピントを意図的にずらして日常を送ることで心を守らなければ、という気持ちもある。
(東日本大震災の時は、繰り返し流れてくる津波の映像を見て、被災地に居ないものの精神を病んでしまった人がたくさんいたと記憶している)


私は、小さい頃から「戦争」という物が怖い。
公園で友達と遊んでいたら、空が赤く染まって、空に戦闘用の飛行機が沢山飛んでいる、ミサイルが落とされて町が燃えてパニックになる、みたいな夢を、何回も見たことがある。
私にとっての戦争とは、そのようなイメージなのだろうな、と思う。


日本の人間は、自分たちは敗戦国で、原爆を落とされた被害者だ、という教育を受ける。
私の想像している「戦争」像も、概ねそのイメージに基づいている。
実際には、日本の方が侵略国だったのに。

今回の件についての反応を見ていると、「自分たちの国が侵略国になる」というパターンが想定されていないことが多い、と思う。
それによって「憲法9条は役に立たない」などと言う非常にズレた意見も目立ったりする。
自国にプーチンみたいな政治家が居た時に、自国が侵略国にならないように政治家を縛るのが憲法9条なのだから、無くせば自国が戦争を始めようとした時に歯止めがなくなってしまう。

そして軍事力があっても、独裁国家である他国からの侵略を止められないという悲しい事実もあり、それを防ぐために、「平和的手段での問題解決の努力をしていく」という覚悟が必要なのだろう。

日本が侵略されるとしても、侵略するとしても、苦しめられて血を流すのは罪のない一般市民であるのだから、戦争なんて絶対に起こらない方が良い、と思う。


***


フィクションにおいて、「戦争」というテーマはよくモチーフにされる。
「戦争はつらく悲しく、起きない方が良い物だ」という考え方は、後世に是非語り継ぎ残していくべきテーマなのだから、当然そうなるだろう、と思う。

しかし、近年の日本のフィクション作品では、「戦争には、どちらにも正義があるのだ」「戦わなければ誰も守れないのだ」というテーマ性が目立つ、ような気がする。
それ自体は描き方による、悪いテーマではないとは思う、のだけれど。

しかし、ファンの側も、「戦争はどちらにも正義があるのだから、その正義について解釈を深めたり議論するのは無意味だ(思考停止)」「攻め込んだ側が悪だという考え方は短絡的で、本当は攻め込まれた側に非がある(強者におもねる)」「武力がなければ平和は守れない(冷笑)」という読み取り方をしてしまっていることが多い、気がする。
現実にその思考を持ち込むと、結構危ない考え方では…?
そして、そのような冷笑的な物の考え方に需要があるから、作品の方もそちらに寄って行ってしまってはいないか? と怪訝になる気持ちもある。

作品自体が「悪役」的な精神性を、「悪役である」ように批判的に描かない、という事も増えて来た、と思う。
そうでなくても、作品自体が「悪役」を「悪役」として描いて、「望ましい精神性」や「メッセージ性」を描いても、ファンの側が「"悪役"の方が正しい!」と反応する、という事を見て来た。


どんなにフィクションが戦争を描いても、紙に載ったインクや文字列を「人間」として見ることができない、と言う感性の人が、私が期待するよりずっと多いのだ、と気づいた。
だからフィクションの人殺しや戦争を肯定出来てしまうし、自国が侵略国になるパターンについても、自分が政治家になってNPCを働かせる側だと思っているから、嫌な事だと感じられないのだろう、と思う。
(名前のないモブが死んだ時と、名前のあるメインキャラが死んだときに同じ反応ができる、という人はほとんどいないと思うから、むしろこれが一般的な感性なのだろうけれど)

私は、「フィクションの力」みたいなものを信じていたけれど、その恩恵を積極的に受け取りに行きたい、と思いながら作品を楽しんでいる人は、そう多くはないのかもしれない、という悲観をしてしまっている。

私はなんかこう、「この作品のメッセージ性めっちゃいいよね! 現実の問題にも通じるものがあって…」みたいな話を人としたいと思ってしまう。
そういう「現実と繋げた解釈」をしないことこそが主流であり美徳である日本の「オタク」界隈に寂しさを覚える。
まあそれは、自分があまりにも周りの空気を読み過ぎる性格だからだと思うけれど…。


以上の事はつらくて露悪的になってしまった私が物事の悪い方にだけピントを合わせてしまっているだけで、現実の人間はそこまで冷たい人間ばかりではない、と思う。


***


このような悲しみや怒りを、どういう風に咀嚼して自分の行動力に繋げていくか? というのが、自分にとっての一つの課題の気がしている。
(現状では、気にしなくてもいい悲しみに焦点を当ててしまい、悲しみややるせなさに沈んで動けなくなってしまう)
「現実はこのようにあってほしいが、自分の期待より人間はしょうもない」という事にいちいち落ち込むのは、理想が高すぎるとも思うし、幼稚であるとも思う。

怒りと言うのは、誰か個人の顔面をぶん殴るためだけに使うようなエネルギーではないはず。
もっと行動していくことに、自分が楽になったりいい方向に行く可能性を感じているので、エネルギーを無駄に使わずに行動力に変えて行きたい。

アンガーマネジメントの本を読み返そう…。
ササっと気持ちを切り替えて行動できるようになるようなアドバイスや、オススメの本などがありましたら、教えていただきたいです。

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