共同体への所属感の話

文章を書いていると、長い話を三行に纏める能力が欲しくてたまらなくなります。

今日は人間の所属する「共同体」の話をしたいと思います。



最近、人間関係を労力をかけてでも築いていくメリットについて考えています。

そして、ここ数日、政治の事や、自民党や維新支持層の厚さ、若者の投票率の低さ、などについても、考えることが増えました。

これはその両方から導き出した仮説なのですが、人間関係は面倒くさい物だ、地域の共同体などとは距離を置いて生きよう、という現代の風潮が、そのまま投票率の低さや自民支持などに繋がっているのでは……ということを、考え始めるようになりました。



共同体、例としては「親戚」「ご近所づきあい」「組合」「檀家」「職場の行事や飲み会」など。

私はこれらのどれにも縁が薄いため、極端な例として、小さな農村にもし自分が生まれ育っていたら、どういう生活をしていたか? を想像してみるなどしていました。

誰かが困った時は村ぐるみで助け合う。他の人に迷惑がかからないように、水路や道などの共有の財産を丁寧にメンテナンスする。お祝いごとも、悲しいことも共有する。村で問題があったり、祭りの日の前には、誰かの家に集まって相談会をする…。


何かしらの共同体に所属していれば、仲間の誰かにとって困ったことは、自分にとっても問題であり、「それは大変だ、どうにかしなければ」と仲間内で共有されます。

これが仲間内で解決できないことであれば、その土地の権力者に掛け合ってみよう、という発想にもなり、自然に政治にも意識が結びついていくでしょう。

それは自分のために贔屓をして欲しいとか、わがまま心で訴えるのではなく、仲間たちや仲間の家族のことをも考えた直訴になるのですから、真剣味も増すでしょう。

そこまではいかなくても、所属する共同体があり、そこで意見を交わし合う習慣があるならば、どのような政治を良しとするのか、という意見は、今よりもずっと出て来やすかったはずです。

政治への意識の高さ、というのは、共同体によって保たれていた側面があるのではないでしょうか。



よく言われるような、「現代の教育に問題があるから」「人権意識が低いから」「日本人の性格が従順で大人しいから」、投票率や選挙結果や、デモなどの政治活動への忌避感にそれが出ているのでは? という定説には疑問を感じます。

歴史の教科書を見ているだけでも、昔の日本の人間(しかも高等教育を受けていないであろう農民)は、しょっちゅう一揆を起こすなど、選挙権があろうがなかろうが政治に対してしっかりと自分の意見、「怒り」を表明していたはずです。

当然、その頃の日本の教育が今より優れていたということは、絶対にあり得ません。

一揆を例として挙げましたが、一揆の原因になったであろう「怒り」は、人を意思表示に向かわせる力のあるエネルギーです。

そして「怒り」は仲間内で共有され、増幅されやすい感情です。現代人が怒らない、政治の決めたことに粛々と従う性質になったのは、決して昔からの性質のせいだけではないと考えます。

他者との分断を良しとした結果、怒りを人と共有する機会が減っているせい、というのも一因として考えられるのではないでしょうか。

(身近な人間の怒りには共感して義憤を抱けるような人間でも、ネットでの何の関係性もない赤の他人の怒りは、何だか攻撃的で苦手だ、必死過ぎて嘘くさい、などという反応になってしまう人もいるのでは、と思っています)



また、「政治家にとって大切なのは政策」という主張への反対意見として、いや実際には、「地盤、看板、鞄」が大切なのだ、という話があるそうですね。

共同体との繋がりの薄い感性の私にとっては、政治というとなんだかスケールが大きくて理想を並べ立てて主張するようなイメージを持ってしまうのですが、実際には政治家という方々は、自分の足で駆け回り、頭を下げ、各所の共同体の話を聞き、それを政治に反映する職業です。

それを見て、この人には恩義がある、この人は良い人だ、応援しよう、と思った地域の人たちが「地盤」になる。

実際には政策だけでは人は人を選ばない。知名度や「なんとなく、この人なら安心そうだ」という人に票を入れる。有名人、二世議員、前職の後任などの、「看板」がある人間ならば安心されやすい。

選挙活動には資金が要る。お金、「鞄」がある人が強い。


今回の選挙の結果を受けて、「政策は正しいのだから、それを理解できない人間が悪いのだ」という考え方をよく見かけました。ですが、実際には政治とは政策だけで成り立っているのではなく、日頃の政治活動や、地方自治体の共同体との繋がりによっても成り立っているのだと思います。

その政治家の"普段の活動"を、現代社会でなるべくコミュニティに所属しないように生きていると目にする機会がありません。(これは私の体感です)そのため、政策が一番大切だ、という印象になる。

しかし、何かしらの形で地域のコミュニティに根差して生活している人が見ている「政治」の世界は私が見ているのとは全く違うのではないか、と最近感じるようになりました。

(例えば個人で商店や飲食店を経営しているなら、昨今のコロナ政策に無知ではとてもいられません。その土地の政治家の人柄や評判を耳にすることもあるでしょう)



ここからは自民党支持層や維新支持層に関しての考えです。


村社会や相互監視社会を嫌い逃げ出すことや、飲み会などの無駄な人付き合いを避けることは、近年のネット社会では単純に良いこととして、当たり前の感覚として語られるようになりました。

しかし、人間は、どこかに所属して誰かに認められたり、誰かのために行動したりされたりすることを、どうしようもなく求める存在です。(私であれば、ネットでの人間関係やオタクとしてのジャンル友達にそれを求めて来たのだと思います)

そのため、共同体に所属感を得られていない人間ほど、「日本」や「テレビで見る日本の政治」「与党」という、本来であれば自分とは結び付かないような大きな漠然とした概念にこそ、「所属感」を求めてしまっているのでは、と感じています。

よく言われる、ネトウヨや「日本はすごい」論を見ていれば、日本という国に生まれ育っている日本民族であることに特別感や優越感を持っている人が存在している、ということは明白です。

また、何かの形で「属性」のゆるい集まりに所属し、敵対するとみなした存在を排斥・攻撃して一致団結する、そういうことに楽しみを感じる人が多いのも、これが当人たちにとって所属感や自己有用感を感じさせてくれる行動であるためなのだと思います。



所属感とまでは行かなくても、テレビで沢山見る人、頑張っているように見える人、に人間は自然と「親しみ」を抱きます。

選挙や政治に興味がない人が多いというのは事実だと思いますが、「私は政治に興味を持っているので、テレビで政治の話をチェックしている。なので私の目から見て正しい自民党や維新を応援するのだ」という人もまた多いのでは、と感じています。

そういう人たちに、「もっと政治に興味を持つべきだ」という呼びかけは届くでしょうか?



「差別反対」「人権問題」「環境問題」「反原発」などと言われてもピンと来ないし、現状への反対意見や中身のない綺麗ごとを訴えているように聞こえて、なんだか説教臭くて反感を持つ…、という人間は多いですが、だからと言って一般の人間が冷血漢かと言われれば、そうではないとも感じます。

高尚な理屈にはいまいち興味を持てないが、仲の良い人や仲間と認識した人の困りごとであるならば、共感や同情心を持って助けたいと思ったり助言をする。そのような素朴な同情心を持っている人間はとても多い。むしろ、人間の殆どと言っても良いと思います。

「理論として正しいから、左派の提示している理念を応援している」という人であっても、身近に実際にマイノリティ属性を持った人が居たり、自身もそうであったり、ネットで困っている弱者の人の言葉に心を痛めたりと、人間らしい同情心からも、「正しい理念」を応援しているのではないでしょうか。

数多くの人間は、人間らしい同情心や優しさを「身近な人間」や「親しみを感じる相手」「自分が身内だと思える存在」に向けていて、しかし概念としての正しさだけを語られても、それを自分や周りの人間に直接結びつけて考えることや、自分の素朴な感性に反する考えに自分を曲げてまで合わせることは苦手としている。

それ故に、「正しさの伝え方」というものは大切なのだ、「正しいことを正々堂々と自信を持って語れば人が付いてくる"わけではない"のだ」ということを、ここ数日、ますます考えるようになりました。





ここまで書いたものは殆ど私の想像に過ぎません。もしかしたら私が書くまでもなく誰かにとっては当たり前な思想であったり、逆に全く正しくはないと思われるような考え方なのかもしれません。

ただ、「ひょっとして、面倒だと思っていた共同体への帰属や人間関係には、私の想像していたよりもはるかにいい作用が強いのかも」と価値観が変わり始めた途端、今まで素通りしてきた物事の見方がガラッと変わるような感覚があり、なんだか浮かれたような気持ちで、その気づきをそのまま書き記したい!! と、この文章を書いています。

自分が変化することに対して、「できるはずがない」という諦めの感覚を持っていた時期もありましたが、変化を楽しむことができる自分を見つけて、嬉しいです。


また何かを書きに来ます。

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