不買運動は「押しつけがましい」のだろうか? という話がしたい

最近も、大企業や政治家による問題がたくさん起きている。

先日は吉野家の取締役による問題発言や人種差別問題が立て続いて起こった。
元々吉野家には滅多に行かなかったが、嫌悪感から吉野家の利用はなるべく避けたいと思ってしまった。

私はそこまで強い気持ちを持ってそういう行動を選んでいるわけではないが、これは「不買運動」に当たるのかもしれない。


私は元々、不買運動という単語や運動がある事を知らず、
初めて知った時は、「え!?! そんなことを考えて実行している人がいるの!?!?」という、
「その発想はなかった」のような、純粋な驚きを感じていた。

その運動がある事を知ったのは、ずっと昔の知り合いがツイートしていた一言からだった。
「私はサントリーの商品は買わないようにしている」
これは別に今現在(贈収賄問題)のツイートではない。
その方は東北の方だったので、おそらくは昭和63年のサントリー社長(当時)による東北熊襲発言を嫌っての事だったのだろう、と思う。


***


「不買運動」を自分の意思で決断して実行し、「私にはこのような信念があり、こういう行動選択をしている」と語れる人は、立派な人で、稀な感性の持ち主だ、と私は思う。
勿論、人それぞれに「何が大切な正義か」は違っており、人種差別への反対から不買をする人もいれば、反日企業への不買をする人というのもおり、不買運動をしているから必ずしも人権意識が優れていて立派だ、というわけではないのだけれど…。

でも、概ね、自分の不便さ・楽さよりもNOの意思表示を優先できる人というのは、真面目で責任感がある人だ、と思う。


一方で私は、「気持ち悪くて無理だな~」と思ったサービスはなるべく使わない、という方針ではいるが、面倒くささや自分の利益に反することは中々できない。
例えば、ツイッターがどんなに良くない場所だと思っていても、ツイッターに依存して生きている。


そして、不買運動をする人そのものに「押しつけがましさ」を感じる人、もいる。
押しつけがましさを感じた人間というのは、自分の心を守るために過剰に攻撃的になり、自分に押しつけがましさや申し訳なさを感じさせてくる、と感じる相手を攻撃する。


だが、本当に不買運動は「押しつけがましい」のだろうか?
と、色々と考えてしまう事がある。


当人がやっていることは、
当人が自分の買う・使う商品やサービスを自分の責任で「選択」していること、それだけだ。
「あなたもこの商品を買わないようにしましょう」と呼び掛けたりはしていないことが殆どだ。

呼びかけている人が居たら、その人はもちろん「押しつけがましい」だろうけど、
そういう人に個別に反発できるなら、呼びかけていない不買運動をしている人との区別はつけて語られているはずなのである。
「不買運動はやりすぎで、押しつけがましい」と語る人は、「呼びかけ」ではない、「不買運動」そのものに反発している。



私も、この感性によく似た感性を持っているため、気持ちが分かる部分はあった。


自分も倫理的な振る舞いができるものならばしたいが、それが叶わなくてつらい。
金銭的事情でどうしようもなく搾取構造の中に絡めとられている。(ここまではツイートに含まれている)

その上で、お前のやっていることは非倫理的だと、安全圏にいる高所得な人間から"言われたら"更に苦しいだろう、と思う。

そう、もう既に、言われる前から「きっと言われるんだろうな」という気持ちになっている」のだ。
倫理的正しさは普遍であり、そして非倫理的なサービスや商品であるならば、利用する人が少なければ少ないほどいいはずだ、と「察する」ことができるがゆえに。
そして、それは言い逃れのできない正論なので、反発することも難しいのだ、反発するのも良くない事だ、と感じるため、私は暗い気持ちになっていた。



だがしかし、気がつけば、この感覚が変化していることに気付いた。

個人が責任を持って決められるのは、自分の利用するサービスやお店やお金を払う相手を決めること、だけなのだと思うようになっていた。
他の人の行動にまでは責任を持つことはできないから、指図も出来ないのだ。と思うようになった。
例え「○○というお店を使うのが正解!!! 他の人にもその選択をして欲しい!!」と思っても、アドバイスしても、それを決めるのはその相手本人なのだ。

もしも私が他人に、「もっと倫理的なサービスを使いなよ!」と言われたとしても、「じゃあその分の金をくれよ!!!! 私は私の財布と相談して私のためにこういう選択をしてるんだよ!」と反発して、終了である。
勿論、これが仕事で、その人が全額お金を出してくれているのならば、その人に合わせる必要はあるだろうが。


私は「責任」という物を非常に重苦しく、「自分が全て悪いのだ」というような形で重責として受け止めている性格なのだが、本来、責任とはこのような、自由や選択と表裏一体であり、そして責任の範囲も自由の余地や選択の範囲に限られてくるような存在なのではないか、と思うようになってきている。
そして、そのような捉え方にした方が、責任を必要以上に重く考えて行動の機会を逃したり、必要以上の責任を背負おうとして落ち込むことが減るのでは? と感じている。


そのような考えを持つようになってから、物事の見方がよりフラットになったのか、
「不買運動」と「不買しない事を責められること」を分けて見ることができるようになった、と思う。



pixivが起こした性加害問題で、抗議のために作品を非公開にしたり、アカウントを削除する人が多くいるのを見ていて、私は(多くの人が指摘し、反発するように)「抗議のためにそこまでするのはやりすぎ」だとは全く思わなかった。
私自身は元々課金していなかったこともあってアカウントを削除はしていないが、それを責めてくるような「押しつけがましい」人も勿論いなかった。

むしろ、本来ならば個人の自由である「自分のアカウントを自分の思うように運用する権利」「自分がお金を払う先を決める権利」の行使(しかも実在の被害者が存在している事件が起こった後の反応)を「やりすぎ」と評する事の方が、むしろ本人の自由と責任を侵害しており、「押しつけがましい」ことではないか? と思う。

もちろん、人の行動を「押しつけがましい」とジャッジする権利は人にはあるのだろう、と思う。
しかし、総合的に見て、その「押しつけがましい」という発言が正しいかどうか、その人がどのような人なのかをも、周りから改めてジャッジされる。
行動する人を批判する立場は、決して「押しつけがましくされた被害者」ではないし、時に加害者にもなり得る立場であり、全く安全圏ではない、と思う。


(この記事を書くのに1時間27分かかりました)

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