アカ分けと「愛され」の話

ツイッターをやっている上で、結構後悔している事がある。
それは、私にはアカウントを用途ごとに分ける癖があり、ツイッターのアカウントを「ここしか自分のアカウントはありません」という、シンプルな状態にしておかなかったことだ。

勿論、アカウントを分けることにも利点はある。
しかし、長年ツイッターをやるうちに、段々とアカウントを分けたことによる煩わしさや、自分の語りたい事を上手く語れないもどかしさなど、色々としんどさを感じるようになってきた。

アカウントを分けずに一つにすることのメリットは、以下のようなものが考えられる。

・信用力が高い

長く運用したアカウントであることが目に見えるので、信用力が高い
(逆に、誹謗中傷などを目的にした愚痴アカウント、新規作成のアカウントなどは、意見の重みが軽く見られやすい)

・人的資産を維持することができる

自然と、自分のツイート傾向や趣味などを理解してくれているフォロワーが残ってくれやすい
(新規アカウントを作ることを繰り返していると、人との長い繋がりは持てないため、困った時に味方になってくれる人もいない)

・ツイート資産が積み立てられる

自分のツイートが資産として蓄積され、「過去の自分はこう考えていた」「昔からずっと私はこのような主張をしている」「私はこのような努力を今までして来た」「このように変化してきた」という履歴がツイートという形で残る
(アカウントを短い期間で変更・投棄するなどを繰り返していると、連続した履歴は残らない)


***


私もアカウントを一つに統合して、「自分自身」としてやっていけないだろうか、と考えては、「今さら無理ではないか?」と何度も悩んでいた。


ファン創作活動をしている私の別アカウントのフォロワーさんは政治や思想のツイートがお嫌いであったり、政治的主張が明らかに合わなかったりする。
そのため、別アカウントの友達に政治の話などをしながら好いて貰い続けることは、おそらく難しい。

今のアカウントは自分が自分の考えを深めるために使用しており、イラストが好きな人を遠ざける要素が多く、イラストを沢山の人に見て貰うのであれば、それ用のアカウントを作った方が良いだろう。
また、私はイラストでお金を稼ぐことにも興味があり、それを目標にするならば、より一層、自分のアカウントで政治主張などをすることは厳しく思える。

(勿論、政治の話は生活の話でもある。それをすることは許されない、というオタク及びオタク向け商売人の考えている基準の方がどう考えてもおかしく、悪影響の方が大きい。それは理解しているつもりなので、ずっと悩みが尽きない)


***


この「アカウントの運用の仕方」という物にはかなり悩みがあり、かなり長いこと考え続けてきた。
正直、最適解の「アカウントを一つに保つ」という事をして来なかった時点で、この考えは負け戦であるし、その上アカウントを増やして自分の喋りたい事を安心して喋る場を確保したい、という解決方法ばかりを考えていたので、正直これは良くない悩み方だ、とは思っていた。

考えが煮詰まりすぎないよう、条件を少しずつずらしながら考えていた。


・今のアカウント+イラスト用の公開アカウントを新規作成

最初はこのように考えていた。イラストを沢山見て貰いたい、イラストをアップする私も堂々と投稿できたら嬉しい、と。
だが、政治的思想などをイラストのアカウントから排除する目的で運用するならば、今のアカウントを繋げることも難しくなってしまう。というか、繋ぎたくないと思っていた、私は。
では、特定を避けるために、今のアカウントの人にこのイラストのアカウントを教えることも避けなければならないのでは?(ネトスト避け仕草)
という事を考えていたら、しんどくなってきてしまった。

・今のアカウント+鍵アカウントを新規作成

今のアカウントでは語りづらい、自分の好きな作品の話や、創作に関する悩みや計画立てなどを誰かに聞いてもらえないだろうか、できるならばアドバイスも貰えないだろうか、という事を私は考えていた。
しかし、その考えは他人に甘えすぎではないだろうか、と自分でも思った。

また、鍵アカウントを運用して愚痴っぽくなることを私は嫌うので、鍵アカウントにすること自体あまり宜しくはないのではないか。

また、鍵アカウントとは普通は自分に興味を持ってフォローしてくれた人にだけ公開する形が多いが、そうではなく、自分が仲が良いと思っている人に自分からフォローを飛ばしたいと思ってしまい、それは相手にとっては迷惑なのではないか? と考えているうちに、煮詰まってしまった。

・今のアカウントを鍵アカ・規模縮小(フォロー整理)して、新しい公開アカウントを作る

今のアカウントでは語りづらいことを語る、そしてそれを心を許せる人にだけ聞いてもらいたい、そして本アカ+身内用の鍵アカウントという形にしたいならば、血も涙もない考え方だが、これが最適ではないのか? と気づいた。

だがこのやり方では、私が自分のアカウントを運用する時に考えていた、「卑屈な自分を変えたい、変えようと思えば変えられると証明したい、自分と同じ状態の人を応援したいし、変われると提示したい」と思っていた目的は、達成されないまま自主的に放棄という形で諦める、という事になる。
今のアカウントをフォローしてくれている、自分とは交流していない人の事を「自分とは縁のなかった人」として切り捨てるのも、本来の自分のやりたかったこととはまた異なる気がした。

この項目について考える時だけ、煮詰まりや自分のわがままさに辟易とするのではない、違った形での「明確にこういう理由で嫌かもな」という感覚があった。
そもそもこの手段を考えている時点で自分は非常に酷薄だな、とも思ってはいたけど…。


・何も考えずに新しいアカウントを作って、とりあえず運用してみる


こうやって悩み続けること自体が良くない、時間の無駄だ、と思った。
悩むくらいなら、さっさとアカウントを分けてみて、悩む時間を減らした方が良い、と思う。

しかし、アカウントを分けたとて、何も喋りたい事がない、気がする、と思った。
今のアカウントではやりづらいこと、アップしづらいと思っていたイラスト、沢山あったからこんなにも執着して悩んでいるはずなのに、なぜやりたい事が浮かんでこないのだろうか?


さて、私は本当は何について悩んでいるのだろうか?


***


ツイッターの方ではもう喋ったことなので、答え合わせを先にする。
私のこの悩みは、「人からどう愛されたいか」が本質であると思う。
まるで心理テストのような答えだけれど…。


***


私は昔、「イシューから始めよ」という有名な本を少しだけ読んだことがあるのだけれど(部屋のどこかに積読として眠っている)、
何を論点(=イシュー)にするべきか、「何を考えるべきか」を考えるのは、その論点への解のクオリティを上げようとすることよりも大切だ、という内容だったように思う。


その考え方で言えば、私はアカウント分けの問題について考えている時、「人からどう愛されたいのか」という概念の中での、ひときわ重要度の低い問いかけについて、ずっと解のクオリティを上げようと努力していたことになる。
それは無駄な悩みだと自分でも思ってしまうわけだ。


「アカウントの運用」は、自分で決めることができることゆえに、自分のコントロール下にある物だと感じやすい。(勿論実際に、自分で決めて自分のやり方で運用することができる)
そのため、「どう愛されるか」というカテゴリの中の「アカウントの運用(自分の期待通りに愛されるために、どうアカウントを運用するか)」も、自分のコントロールできる範囲だと錯覚してしまい、執着してしまったのだと思う。

アカウントを一つに統合すれば、他人から統合された一人格として見て貰えて、駄目な部分や至らない部分も含めて丸ごと好いて貰えている安心感が得られるのでは、のような。

だが、他人からの「愛され」はコントロールが難しい。
アカウント運用は自分で決められるが、実際に誰に好いて貰えるかは相手次第なのだ。

コントロールしやすいのは、自分から他人、もしくは自分に向けた「愛」である。
そこに「愛され」が返って来る。

なので、「人からどう愛されたいのか、そのために何をするべきなのか」という問いかけについての答えは、「自分が、他人や自分などの、何をどのように愛するかを考え、実際に愛する」であると、私は思う。


***


アカウント運用と、人からの愛され、自分からの愛についての関係性について覚書をする。


アカウントの運用は、単にアカウントの運用に過ぎないと思っていたが、実際にはその人の性格の傾向を強く反映しているのだと思う。

片付けられていない部分のある部屋に、何も臆することなく友人を招くこともできる人もいれば、人を招くことができない部屋だ、と思い、友達を呼ばない人もいる。
後者の人でも、写真で自分の部屋の綺麗な部分だけを切り抜いて、ネットにアップすることはできる。

同じ状況になって、そういう行動を選ぶという傾向と選択が、ネット上でも、アカウントを一つに保つ人と、アカウントを沢山分ける人に、人間を分けていく。


私は、アカウントを一つに保っている人は自分を丸ごと愛したり愛されたりできるのだ、と思っていたのだが、順序が逆で自分を丸ごと愛したり愛されたりすることができる人がアカウントを一つに保っているのだ、と気づく。

自分を総体として愛することが不得手な人間は、アカウントを分けてしまう傾向がある。
あるいは、「これは人に見せても大丈夫な自分の一面だろうか…」と自己ジャッジをしてしまい、人前で喋る事を禁じている自分の一面があったりする。

人間というのは、部分部分ではなく、総体でこの世界に存在している。
部屋の綺麗な部分だけを切り抜いて見せたくなるタイプの人間は、自分の「作品愛がある」とか「絵が上手に描ける」とか「穏やかでおとなしい人柄をしている」とかの部分だけを綺麗に切り抜いて、人に見て貰いたくなる。それが自分の長所だから。
そして、例えば他人への嫉妬などの醜い感情は、どんなに語りたくても別のアカウントに分けて公開しなければ、折角綺麗に切り取った自分の長所を汚してしまう、と思う。
(加害的な愚痴アカウントなどが作られやすい背景には、このような理由があると思う)
だが実際には、人間は総体として生きているので、都合の良い所だけを切り抜いて存在することは不可能なのだ。

ネット上ではそのような生き方ができるような気がするけれど、この話で言うならば現実世界の愚痴アカウントを作った人間には醜い部分がある、それはどんなに自分で否定しても事実。
そして、そこだけ綺麗に切り抜いた「長所」は、きっとその人の中では「綺麗に切り抜かなければ、醜い部分と切り離さなければ、長所たりえない」。


本来であれば、「良い所もあり、醜い所もある自分を、総体として愛す」ことが必要なのだと思う。
他人に愛される前に、自分が自分を愛する工程が挟まるのだ。
それを忘れたまま、「他人にどうやって自分の良い所をディスプレイして、どう愛してもらうか」の算段をしても、空回りして上手くはいかないのだ、と思う。
私はつまり、そのような状態になっていたのだ、と思う。


アカウント分けについて悩んでいる上の文章に戻ってみれば、「絵を見て貰いたい」とか「仲の良い人に○○してもらいたい」とか、自分が人にして貰いたい事ばかりを書き連ねているのが分かる。「愛され」の話なのだ。
その中で唯一、私が「自分がやりたいと思っていたアカウント運用方針を投げ出して、フォローを整理してしまうのは嫌だな」と思ったのは、それが私が自分をそのように愛そうと決めたからで、自分と同じ状態だった他の人の事もそのように愛したかったからで、つまりそこだけは「愛」の話なのだ。


***


「自分が自分や他人などの何をどのように愛するかを考え、実際に愛する」という課題については、私はまだまだ考え中だ。

自分が愛すると決めたのは「卑屈で自我が薄かったが、そこから変わろうと頑張る自分」であったが、本当は、「卑屈で自我が薄かったが、そこから変わろうと頑張る部分でもあった。
そのため、まだ自分を総体として愛する感覚が身についていない、と思う。

総体として自分を愛せるように頑張るべきか?
(例えば、自分への評価の基準を楽なものにするなど)

それとも、自分で自分を好ける部分を増やしていく方が良いのか?
(例えば、イラストのアカウントを作るにしても、絵の練習をして上手くなっていく行程をアップするアカウントにしてみる、など)

そのあたりも、今後どんどん考えていきたい。



また、自分が一週間前に少し悩んでいた、「常に一生懸命頑張っている自分に自信を持ちたいが、そうすると自分が頑張る事を辞めた瞬間に、その自信は消えてなくなってしまうのではないか」という悩みがあるが、この悩みも「総体/部分」という考え方によって、解決したように思う。
「今(過去から今までの一定時間の間)一生懸命頑張っている自分」は、「部分」である。
「頑張っていたが、今は頑張っていない自分」は、「今頑張っていない」部分に着目するなら「部分」だが、単に事実として述べるなら、「総体」である。

自分の良さは、部分から発生して部分と共に消失するわけではなく、総体に属している。
自分の良い所も悪い所も、あえて切り抜いて見てみる必要はないのではないか。
長所だけ、短所だけでこの世に存在したり関わったりすることは、元々誰にもできないので。



文章を書いていて、自分は結構哲学とかをやるのに向いているのではないか~? と思ってしまった(増長)
自分の生き方や自分に向いている物事のやり方について、もっと考えていきたい、と思う。


(この記事を書くのに2時間52分かかりました)

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