自分の悩み事や不安感について考える

去年末あたりから、月に一回ほどカウンセリングに通うことにした。
しかし、三月は予定が合わず、カウンセリングの予約が取れなくてしょぼくれている。
早めに四月の予約を入れた。今度は予定を空けておく。

自分の抱えているしんどさについての話がしたい時、カウンセリングを頼るのは良い手段だと思っている。
というか、私は悩み過ぎる性格のわりに、それ以外にあまり良い手段を持っていない。
カウンセリングルームの代わりに、オンラインでの通話カウンセリングなども利用しているが、中々にお金がかかる事には変わりなく、計画性なく気軽に利用するのは躊躇ってしまう。

というわけで今回は、セルフカウンセリング目的で、自分の抱えているしんどさについて文字化してみようと思う。


***

自分で自分の内面について文章を書いてから思ったが、
結論として、人の問題をケアするという事は全く簡単ではない、と改めて思った。
人間めんどくさい。人間の中でも私が特にめんどくさいのだが、人間はめんどくさい。

人間の抱える苦しみやしんどさを、誰かに無償でケアして貰おう、という行動は加害になるので、それがしんどければしんどいほど、人に期待を向けない方が良い、と思っている。
(私自身がそれを出来ているとは言えない所があるため、マジで気を付けねばならない)


私が書いている以下の自分の内面についての説明も、自分で自分を見つめなおす目的で書いたものなので、特に他人にケアを求める目的のものではない。
特にトラウマのような話は出てこないが、他人の問題を一々目にしても面白くないと思う。
また、今自分の事で手一杯の方や、人の問題をつい自分事として受け取ってしまうという方には、そもそも閲覧をお勧めしない。


でもブログなんて個人の日記みたいなものだから、これを読んでいる優しい人は、そんなことは説明しなくてもわかりきっている人だろうか…???



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私は、目標設定や行動の目的を定めるのがあまりにも下手で困っている。

「仕事のため、早く寝よう」という目標を立てた。

立てたが、「自分の精神衛生のために、好きな事をしたい」だとか「絵の練習をしたい」だとか、「漫画が描きたい」「本が読みたい」「ツイッターをしたい」だとか「ツイッターをしたい」それから「ツイッターをしたい」など、色々なやりたい事がある。

私自身は不眠症気味で、薬を飲まないと眠れない。
薬を飲むと眠くなり他の事が出来ないので、薬を飲むのは辛い。
が、薬を飲んで眠れる状態の時は、可能な限り爆睡してしまう。

自分の行動の切り替えが下手であるし、怠惰である。

「仕事のために、早く寝ればよかった」と思うのは朝の通勤までの間だけで、それ以降は「仕事の勉強をすればよかった」とか「あれをすればよかった」「これをしたい」という願望が湧いてくる。
それらの願望に抗って「明日の自分の為に、早く寝る」という計画性や甲斐性が私にはない。
寝るための薬を飲めば、頭がぼーっとして、やっと手に入れた自由時間すらも自分のしたいことのために使えない、という怒りがある。


私はこの問題を「やりたいと思っている事を禁止する」という手法で解決しようとした。

過集中して寝不足の原因になるため、ゲームを我慢する、絵を描くのを我慢する、ツイッターでの人間関係を増やすことを諦め制限する、ツイッター自体を我慢しようと考える。

だが、自分にあれもこれもと制限を課していくのはストレスのかかる事だ。
元々私は頭が固く、新しいことに取り組まない性質のため、努めて自分の好きな事をせず楽しいこともしないのは、前向きな行動や刺激の総量自体が減っていき、余計につらく感じる。
また、自分に禁止する事柄が増えると、だんだん「ツイッターを我慢する代わりにゲームをしてしまう」など、毒をもって毒を制すような、問題解決のためにならないやり方が増えてしまう。
また、結局だらだらと自制心なく目の前の事をやってしまうことも止められていない。

私には、「自分は行動しないタイプのため、自分自身のためには、行動を増やした方が良い」という感覚も存在している。

そして、何を禁止して何を行うのが良いのか全く分からなくなって、自分で自分の不安感に圧倒されてしまう。


***

私の心理状態を何かに例えるなら、
土地勘も地図もない状態で、目的地も告げられず、不慣れな車の運転を任されたような不安感に陥っている。(これは主観であり、大げさなたとえなのだろうとは思う)

とりあえず、色々行くべき箇所があるようなので「まずはスーパーに行こう」と決めるものの、運転はおぼつかず、そのうち「いや、この後も行く場所があるのだからスーパーは後回しにしたほうが良かったかもしれない」とか「いや、先にガソリンスタンドに行くべきだったが、ガソリンスタンドに行くなら逆方向に行かねばならない」と迷いが次々と生じてくる。
「とりあえずどこかに車を停めてスーパーを検索したり、行き場所を考えよう」と考えるも、誰も相談できる相手がおらず、自分がどうすればいいのか、終いにはアクセルを踏んでいいのかブレーキを踏めばいいのかすらわからなくなってくる。


セルフモニタリング能力の低さ、目標設定の下手さ、自己コントロール力のなさ、経験値が少ない故の自信のなさや不安からこのような状態になっているのだろう、と思う。


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人の話を聞いて「共感的にメンタルケアする」事も、「問題解決をする」事も、全く単純ではなく、非常に難しいな、と思う。

おそらく、私の悩みを表面的に聞いた後、「共感的にケアして欲しい」と言われた人間は、
「大丈夫! アクセルを踏んでるんだからあなたが不安に思うよりも前に進んでるよ!! ファイト!!!」という類の励ましをすると思う。
しかし実際には、私は「そんな状態だと不安でたまらないのは仕方ない」という弱さの受容を求めていたりする、気がする。

「アクセルを踏んでいるから前に勧めている、大丈夫」という励ましは、
「このままアクセルを踏み続けていたら誰かを轢いてしまうかもしれない」「目的地を通り過ぎてしまうかもしれない」「そもそも目的地をどこにすればいいのかわからない」と言う不安を全てスルーされて、助けを求めたにも関わらず背負いきれない責任がそのままにされたまま、見捨てられるように感じられる。

まったくもってめんどくさい。


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私は対話における「共感・ケア的態度」も「問題解決思考」も、どちらが上と言う事はなく、両方が必要な物だと考えている。

人間関係を保つための雑談に、問題解決だけでなく、
相手への興味や優しさを示すようなケア的な態度が必要な事は間違いないと思う。

けれど、関係性の維持という目的を超えて、もっと根本の所から他人をケアするという事は、一般の人間には難しい、むしろ、プロであっても難しいと感じる。

そのため、カウンセリングと言うのは金銭が発生する仕事として成立しているし、一般の人間に担わせるべき労働ではない。
特にアダルトチルドレンなどの生育歴やトラウマ、障害などに関するような相談事は、その専門知識のあるプロに任せる方が良いのだろう、と思う。


私はツイッターで一年以上自分の内面を言語化して来たし、それ以前も内面の言語化を行うことは多々あった。
そのため自分の抱えている問題やストレスを、比較的スムーズに文字化することができるが、一般的な人間は自分の内面を言葉にすることにさほど慣れていないのが普通だ。
特にカウンセリングを必要とするタイプの人は、言語化が不得手だという人も多いはずだ。
そのため余計に、「人の話を聞く」「それをケアする」事のハードルは上がる。


話を単に聞くだけでなく、分析や問題解決の能力も必要とされてくるのだろう。
人間はエスパーではないので、目の前の人間が何に悩んでいるのか、本人に聞きながら探っていく必要がある。
また、何をどうすれば問題解決に向かうのか、どう伝えればそれを本人に伝えて納得してもらうかも気を配らねばならない。

人をケアすると言うのは難しいのだ。
「うんうんと頷いていればできる、簡単なこと」ではない。


問題解決も簡単ではない。
それは怠惰なだけだ、行動しろ、と言う風に指導して解決を図る人もいると思う。

しかし、自分で決めた目標に自信が持てないので行動が出来ないのだ、自分の決定にこそ自信を持ちたい、と私が思っていれば、
私は人からの指示に反発して「言われたとおりにしたが上手く行かなかった」という態度を取るかもしれない。めんどくさい。
それを見て試行錯誤するか、それとも同じ指導を続けるか、対応する側も大変だと思う。

そもそもこの対応自体が、「問題解決を求めていないのに問題解決をしようとする空気の読めない奴」ムーブになっており、「ケアして欲しい!」という需要の後にこの話がされたなら、余程信頼関係が無ければ厳しく受け取られるかもしれない。
(だが、本人のためを考えれば、ケア要求をガン無視してこの対応が正解、という場合も、実際にはたくさんあるだろう)



***

ただひたすらに「自分ってめんどくさいなあ」と思う事を思うブログ記事になった。
結局、悩み事についてはあまり解決していない。
解決していないが、自分でこうやって自分の問題について整理することも、少しは自分の為になるのでないか、と期待している。
カウンセリングを受ける時にも、多少は話しやすくなるだろう。

今日は寝るための薬を日付が変わる前に飲めたので、一歩前進だと思いたい。

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