悪への憧れと、卑屈について

他人や周囲と自分を比較すると、自分だけでは気付かなかった特徴や差異に気付く事がある。


自分はフィクション作品の「悪」について、他の人あるいは世間一般での基準と比較して、
かなり肯定的な見方をしているのでは? と感じる事がある。

私には、「悪役という物はカッコいいのだ」という謎の確信がある。

だが。
ある時私は、「悪、普通に怖い。(悪役って)何考えてこんなことしてんの?」というのが所謂"普通の反応"であると、気付いてしまった。
もっとも過ぎる。あまりにも。
フィクションであればカッコいいとは思うが、私もマンションの隣人が悪人や犯罪者の類だったら、怖すぎて通報の上で引っ越す。

あるいは、悪役が好きでも、好きなキャラが「悪」と言われると「いや善人だし、むしろ主人公の方が悪だし」と価値観の転換を図ろうとする人も見受けられる。
好きなキャラが「悪」だと言われるのは、その人にとっては耐えがたいことなのである。私にとっては誉め言葉なのに。

ちなみに、フィクションに対しても「悪、許せねぇな!!!」と力強く思える人とは、私はむしろ一緒に良いお酒が飲めそうだなと思っている。
下戸なので実際は飲めないけど…。



何故私にとって「悪役」が憧れになるのかの理屈は、ある程度言語で説明できる。

私は非常に他人の顔色を伺う気質が強く、卑屈だ。
元々私は善悪の価値観を生育過程でつかみ損ねている。(善悪の基準が言語で伝達されず、親の気分で判断基準が変わる家庭環境だった)
弱者を攻撃するのは悪だとか、非難されても正しいことならば断固として主張すべき、などの感性が薄かった。

そのため、自分に自信が持てず、他人が非難している対象を敏感に察知して、「どうやらこれがこの世の中でよくないこと=悪とされているらしい」と気にして、それを避けて「いい子っぽい」立ち位置に固執してしまう。
(実際には、世の中で批判を浴びることが必ずしも悪ではないし、賞賛されれば必ずしも善というわけでもない)


逆に、「悪」でありつつも胸を張って生きているキャラと言うのは、他人から攻撃されてもそれを気にしない。
他者評価を一切気にせず、自己評価のみを重視する世界に生きている。
それは私にとっては、堂々としてカッコよく思える。


もちろん、世の中にとっての「正義」を確信している人も、同じくカッコいい。
何かを確信していて、自分に自信がある人と言うのは素敵なのだ。
正義感が強く、人を助ける行動をしている人にも、私は憧れる。

だが、正義感が強いことは大抵は世の中からも「良い事」であると承認されることが多い。
そのため、「自分が悪い(あるいは、変わった)人間であり、他人からは承認されないと分かっていながら、それでも堂々としている」人間に、より特別に私は惹かれるのだと思う。


ただし私も「悪事は良くない事だ」という価値観は持ち合わせているので、作中でちゃんとそのことが指摘され、最後に悪役が適切に裁かれる話が好きだ。
悪を悪として書くことは、正義を正義として書くことと表裏一体だと思っている。



この「他人からは承認されないと分かっていながら堂々としている人への憧れ」は、私自身の固有の憧れ感情であるため、他人にはあまり理解されないし共有もしがたいのであろう、と思う。


現実の悪事が許しがたいことに異論はない。
だから、フィクションの悪にも肯定的な文脈が発生しないのは筋が通っている。

善性を兼ね備えない人間が他者からは蔑視の対象である事も
(自分自身がその善性を兼ね備えない人間なのだけど)理解できる。
卑屈や、それによる不安や生きづらさは、善性の欠如から生まれてしまうのだと思う。

結局のところ自分の性質が善人よりも悪人に近いので、
悪人キャラの方が「共感」できる、という部分もあるのだと思う。

私と同じ、善性を獲得できなかった人たちも、
おそらくは、人の顔色を伺い「良い子」であることを前提にしか自分の存在が肯定されることを考えられないので、
悪役を好きになっていても、「そのキャラは悪ではない」という表現でしか、
そのキャラを肯定して好きでいられないのだ、
自分の好きな感情をそうやってしか肯定できないのだ、と思う。


私は間違いなく、好きなキャラが悪だからこそ好きだ。
別に私が好きだろうが嫌いだろうが、その悪役からすると絶対にどうでも良いと思う。そういう所が好きだ。

それらの感情を堂々と吐露すること自体が、私にとっては「周囲の反応を伺わず、伺ってもそれに合わせず、自分の感情を口にする」訓練になった。



***

喋りたかった本題はここまで。
話は変わるけど、ついでに卑屈について書き記しておく。


善悪の価値観を身に着け損ない、人の顔色を伺ってしまう卑屈な人間を脱出するのには、
「自分で考えて、善悪の基準を持つ」事が必要だと思う。
誰が何に怒るかには個人差があるし、それが決して妥当で理論的に考えられたものとは限らない。目の前の人間の反応に一喜一憂していてはおそらく、それに振り回されるだけで不安なままで終わってしまう。


最近、認知の歪みを取る事は、一点に集中しがちな視点から一旦カメラを引くことと似ている、と思うようになった。
自分の思考の枠組みというカメラを引けば、「目の前の人はこうだった」という視点から離れて、もっとたくさんの人間や情報や客観性を取り入れられ、細部にこだわる必要がなくなってくる。
カメラを引き、目の前の出来事からのダメージを減らしていきながら客観的な視点を得ていくことが必要なのだと思う。



もし仮に周りに善悪についての高い価値観を持ち、それに従って叱りつけてくれる人が居たとしても、
「なぜそれは善で、それは悪なのか」をそこから学ぶことが出来なければ、
「何かの拍子にまた叱りつけられるかもしれない」、という不安が強化されるだけで終わってしまう。


善性が何かがわからないということは、例えば、「暴力はよくない」という事を認識しても、そこから文脈を学び損ねてしまったりする、という事だ。
子供が暴力で親に反抗することは、程度にもよるが悪事とは見做されないが、
親が子供を暴力で従えさせようとすることは、一般的には悪事である事のように、善悪にも文脈がある。

実際には、弱い者を保護せず攻撃することが、弱い者への思いやりという人間らしい「善性」の欠けた「悪」という態度だ、という文脈があるのだと思う。
そうでなければ、人類は今まで繁栄してこなかっただろう。


善性はよく、生まれ持った「感性の差」のように語られるけれど、
実際には、理論的に考えて合理的な在り方が「善」として共有されている。
なので、後天的にも、十分に学ぶことが出来るのでは、と信じている。


***


以前、
トマス・アクィナスが「悪とは善の欠けた状態の事を指し、悪単体では存在しない」と主張していたのを偶然知り、
私が語る「」つきの「悪」とはもちろん定義は違うけれど、とても面白く思った。
物事は存在しているだけで善である、というのが彼の主張だった。

(キリスト教圏では、神という完璧で善性の塊の存在がこの世界を作ったのだから、
 この世界は完全であっても良いはずで、何故この世に悪があるのだろう、
 という疑問が昔からあり、そこからこういう考察も生まれているらしい。面白い)

この解釈を基にすると、自分の性質の一部である「卑屈」という状態も「善性の欠けた"悪"という状態」であり、でも私自身は生きているのでそれだけで”善”だ、という事だ。


私は「悪」という言葉を過剰に避けて100%の「正義」や「善」という潔癖なイメージに固執する心理に違和感がある。が。

それは、自分や好きな物が悪である、善ではない、と言われる事を恐れる(言われてしまうと自信や自分の存在が根底から覆される恐怖がある)心理と繋がっているのだろうな、と思っている。

私みたいに「悪かっこいいよ!!!」という風に振り切れなくても良いから、
そういう心理が、こういう(人間は生きているだけで善だ、とかの)考え方を知る事で楽になればいいのにな、と思ったりする。

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