邪神を信仰している

めちゃくちゃに好きなキャラクターがいる。

恥ずかしいので作品やキャラクターの具体名は伏せるけれど、
所謂「王道」とか「子供向け」とか「勧善懲悪もの」とか、
場合によっては「古典的」と言われるような作風の作品のラスボスキャラクターで、邪神だ。
神だけれど、人間のことなどは何も考えておらず、
むしろ人間の弱さや醜さを忌み嫌っており、自分の力によって人間を滅亡させようとしている。
そういう自分も、人間の良くない所をこれでもかと煮詰めたような利己的で酷薄な性格だ。
そういう所が好きだ。


敵の「悪の組織」は、この神を信奉している人間たちによるカルトじみた宗教団体で、一度は滅んだ邪神を再びこの世に顕現させることで、世界を滅亡させようとしている。
勿論主人公たちは正義感からそれに立ち向かっていき、復活した邪神を打ち倒す、というお話の作品だ。
(今回語りたい事からは外れるけど、この主人公も非常に善人でかっこよくて、とても好きだ)


短絡的すぎるが、推しが「神」であるなら、軽率に「信者です!!! 信仰しています!!」と名乗ってしまいたい、という心理が私にはあった。
オタク文化には、自分の好きな物を「推す」事を宗教や信仰に例える風潮は、確実に存在している。
好きすぎる、信仰しよ…。そういう風に考えていた。



だがいざ自分事として「信仰」してみようと思う段階になって、私は困惑した。

私はオタク心として、
  • 作中での信仰がどのような形なのか
  • 教義はどうなっているのか
  • 信者たちは神の何を心の支えにして信仰を続けているのか
などに強い興味があった。

が、作中では、宗教のそれらしい教義も、神によって心を救われる信者の描写も、この神を信仰することによって得られるご利益も、何も情報提示されていなかった。


なんで悪役たちはこの神を信仰しているんだ???
ツッコミ心が抑えられなくなった。
邪神だから、と言えばそれまでだし、割り切った描写はメッセージ性が強く私好みのものではあったが、作品への批判として言われがちな「描写が浅い、キャラが生きている感じがしない」という批判がされるのも当然に思えた。


自分でも一生懸命ある程度仮説を立ててみたが、しっくりは来なかった。

①神の怒りを鎮めるため

悪神への信仰と聞いて想像しやすいのは、「神の怒りを鎮め、平和を願う」という形だ。
人間が自然災害を恐れて、それを擬人化して祀るような話は現実にもよくある話だ。
だがこの宗教組織のケースの場合、全くの逆で、信者たちは神の顕現によって破滅を起こすことが目的だ。

②我が身可愛さ、もしくは神罰への期待

また、「定められた滅びの日に、自分だけは助かりたい」というパターンも考えられるだろう。
が、この場合も、一度滅んで無害な存在である神を、わざわざ再び復活させて実際に滅びの日を起こしてもらう必要はないはずだ。
(恨みの対象である、別宗教の民たちがのうのうと生きてるのが気に食わねーーー! という動機は描写されていたので、自分たちが滅んでも良いから相手が裁かれてほしかった、という風に解釈することは可能だが…)
そもそも悪役たちは、作中では自分の神のために自分の命を捨てることさえ厭わない狂信者的な描かれ方さえしていた。
ということは、「我が身可愛さに」という解釈は間違っている可能性が高い。


信仰とは、一体何なのだろうか。
例えば神社のような所に神を奉って、不利益を起こさないように願ったり、利益をもたらして貰う。
あるいは、正しいと信じられる教えを胸に抱き、より良い生き方の指針とする。
そういうものなのだと私は思っていた。


そもそも、信じるとは何だろうか?


相手の事を信じる、と思う時、
  • 相手の言っていることが理屈として正しいと判断し、「信じる」という行動を選ぶ
  • 相手が好き、親しみを感じる、正しく見える、などの理由で「信じる」状態になる
少なくともこの二つの要因があり、現実にはその二つの両方の要素を合わせて「信じる」状態になっているのだろう。

両方の要素のどちらが強いかという比率は、その場その場で、あるいはその人によって違うはずだ。
そして私は、後者の、「相手が好きという気持ちから自然に信じ込んでしまう」という傾向が非常に強い人間らしい、と気づいた。


私は好きな二次元キャラクターに神だとか宗教関係者が妙に多いのだが、そういうキャラに共通する要素として、
「一見風変りだが、自信満々に自分の考えを言っており、やけに堂々としている」ような人に「信じるに値するっぽさ」つまり「好感」を感じるのだろう。
「この人の言っている事ならば信じてみよう」、そういう発想が強いタイプなのだ。
だから、明らかに悪じゃん…と思えるようなキャラについても、「信仰しよ…」と思えてしまうのだろう。
私がゴールデンカムイの登場人物だったら、おそらく鶴見中尉の取り巻きのモブだなあと思う。


よく陰謀論として「なぜその理屈を信じようと思った?」と疑問符がつくような極端な世界観が信じられていたりするが、しかし人間は理屈だけではなく、信じたい物を信じてしまうのだ、と思う。
「信じる人がアホだからだ」と、自分とは関係ない物として考えてしまうのは危ういのかもしれない。
オウム真理教の熱心な信者には高学歴の人が多かった、という話は有名だ。


こういう「信じ方」をしてしまうにあたって、理由と言うか、メリットのようなものはあると思う。
判断のために複雑な処理が必要ないのだ。
周りが正しいと言っている事を逐一検証して「いや、それは正しくない」と主張することには、膨大なエネルギーを使う。
正しいっぽい人が言った、正しいっぽい物を受け入れていく方が楽なのだ。脳の省エネだ。
(それが過度であれば問題を起こすが、"適度な"省エネは悪いことではないし、誰もが行っているごく自然な事だと思う)

現実に疲れ、二次元の世界に「癒し」を求めるオタク(もしくは若く、判断力がまだ成長段階の人間)が、「推し」に対しては盲目的になりやすい理由も、この「省エネだから」なのではないだろうか。
そういう人間が集まった結果、推しに盲目的であり、推しを批判しない、「信仰」しているのがファンとしては普通なのだ、という風潮も生まれてくる。
一方で、「好きな物については(しょうもなくても)とことん考える」という、「理屈」を追求する姿勢を持っているオタクも多いけれど。


また、一応、目の前の相手の事をとりあえず信じるスタンスで対人関係にのぞめば、
「目の前の相手の理論の正しく無さについてマジレスでツッコミを入れてしまい、相手を憤慨させて気まずい思いをする」といった危険も多少は減る、かもしれない。
だが同時に、相手の言い分を無条件に信じるスタンスで他人に接せば、自分への過度な要求や暴言をシャットアウトできる能力が培われない。
やはり、ある程度の「理屈によって物の正しさを判断する判断力」は必要なのだろう。


話が大幅に逸れてしまった。


何故邪神が信仰されている設定が必要だったのか?

作品の世界観について私は数年以上(!)悶々と考え続けていたのだが、私はこの邪悪さしかない神が、カルト的な宗教とはいえ「熱心に信仰されている」、という設定に何故なっていたのかに非常に興味があった。

私はこの作品の作り手にある程度の信用を置いていた。
メッセージ性が強く感じられる作風なのに、どうして敵キャラをこんなにもペラッペラで誰にも共感できないような設定にしたのか、敵にも同情できる正義がある(私はあまりこの手の設定が好きではないけれど、これが現代的な人気の出る敵キャラの要素だと思う)、という設定にしなかったのか、不思議だった。
そこに理由があるのだろうな、と思っていた。


自分の中で何年か考えて出した結論としては、「何かを無条件に信じることへの批判」の意図が作り手にはあったのでは、という考え方だった。


敵組織の宗教団体は別に最近になって設立されたわけではなく、「うちは先祖代々この宗教でした」というキャラクターたちによって構成されていた。
つまり、判断力が育たないまま、この神を信じて身を捧げることしか自分には生き方が無いのだ、と思いながら大人になった人たちばかりだから、「この神を、昔からの教え通りに復活させても良いことないぞ」という判断ができないのではなかろうか、と考察した。

実際に、作中には、
善人であった母親によって悪徳な宗教から遠ざけられて育てられた我が子に再会し、
「先祖も私も神のために頑張って来たのだから、お前もこの宗教のために身を捧げろ」と迫る父親(悪役)なども登場する。怖すぎる…。

この父親がカルト何世かはわからないけれど、「この組織にはついていけない」という人は自然と淘汰され、無条件に宗教を信じる人たちだけがコミュニティを維持し続けて行った結果、「悪の組織」としか言いようのない集団と化していたのでは、と思う。


また、最近「正義の逆側はまた正義」と言うフレーズで争いごとを「どっちもどっち」化する姿勢に疑問を強く感じるようになった。
やはり「実際に悪いことをしている悪役」がしっかりと「悪」として描かれている作品は信頼が置ける、と一層強く感じるようになった。



***


私は未だに冒頭に挙げた「邪神」キャラが好きだ。
作品を知って数年単位で好きで居続けており、しかも何年経っても色褪せずに熱狂的に好きなので、もうこれ信仰でよくない???
いやでも私は現実では悪と呼ばれる属性の行為は好きではないし、善性をこそ尊いと思うので…。
という熱狂と冷静の反復横跳びを続けている。

(好きなんですよ どれだけ憎しみをぶつけても足りないような二次元の絵に描いたような邪悪が…)


けれど、現実がめちゃくちゃになって、私にも祈る神様がいて欲しいと思った時に、
現実世界を余計にめちゃくちゃにしてノストラダムスの大王のような方法で解決するような神様には冗談でも祈れない、と思った。
「こんなひどい世界無茶苦茶になってしまえ!」と思うことはあるけれど、それはそう叫びながらおもちゃ箱をひっくり返したい子供の癇癪のような気持ちなので、万が一にも生きた人間が無茶苦茶になったら嫌だ。後悔する。
なので、今は少し冷静モードで推しを眺めている。好きなんだけど。


私の推しが例外ではないように、フィクションでは、「神」や「悪魔」は超人的な力を持ってこの世の中に存在するキャラクターとして描かれがちだけれど。
現実世界では、神様は、
善行が報われてほしい、世界が平和であって欲しい、辛い気持ちが癒されてほしい、世の中がいい方向に行ってほしい、そういう願いを、世界の外側から見守って、「きっとそうなるよ」と優しく肯定してくれるような存在であってほしい。

フィクション作品が好きだと、神様が凄い力を振るって物事を解決してくれる、という世界観をついつい夢想してしまうけど(セカイ系的である)、
現実に起きている戦争に神様が慈悲の心を持って介入して止めてくれるとしても、それによって人が死んでしまうなら、私はその「神様」に対して信仰心を持てない気がする。



冒頭の「邪神」は、必ずしもカルト宗教的な愛され方ばかりではなく、過去に一度存在していたその世界では有名な神様のため、素朴な信仰心を持って「神様」として崇めている一般の人もいる、という設定ではあった(一応)。
その人たちは、いつか復活する邪神としてではなく、実在はしないけれど平和の祈りを受け止めてくれる対象として、その神様を愛していたのかもしれない。


世界、平和になって欲しいです。(これは祈る先のない祈り)

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